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新島八重 2013年(平成25年)NHK大河ドラマ「八重の桜」


2013年(平成25年)NHK大河ドラマは、会津若松ゆかりの人物・新島八重を題材にした物語に決定しました。
大きな変化の時代を力強く生きた、八重の物語をお楽しみに。
八重ゆかりの土地の観光情報をご紹介しています。


新島 八重とは

新島 八重(にいじま やえ)旧姓 山本 八重
新島八重は、会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生しました。
戊辰戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を駆使し、鶴ヶ城籠城戦では自らも7連発スペンサー銃を持って奮戦しました。
後には、同志社創立者の新島襄を妻として支えました。
その後、日清戦争・日露戦争で篤志看護婦となり、その功績により銀杯を下賜されました。


幼少時代と戊辰戦争の始まり

八重は弘化2年(1845)11月3日に会津若松鶴ヶ城米代四ノ丁で誕生します。
父の山本権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれました。
山本家にとっては五人目の子でしたが、一男二女は早逝したため八重は17歳年上の覚馬と2歳下の弟、三郎と共に育つことになります。

山本家は砲術師範の家柄でした。
そのためか、八重は物おじせず快活な気質を持っていました。
八重白身が後に書いているように、娘時代の興味は女らしさとは無縁の鉄砲や砲術でした。
そのような性格の背後には兄の覚馬の影響があります。
八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きく、兄から洋銃の操作を習い、洋学の思考を身につけていくようになります。

その頃、覚馬の招きにより川崎尚之助が会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていました。
川崎尚之助は但馬出石藩医の出であり、蘭学と理化学を修めた有能な洋学者でした。
尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮することになります。
そして、戊辰戦争が始まる前、尚之助と八重は結婚しました。

尚之助と結婚して3年後、戊辰戦争が始まりました。
尚之助とは戊辰戦争が始まる頃離婚することになります。

戊辰戦争が始まり、戦局は会津藩に不利なものとなります。
新政府軍が迫り、鶴ヶ城入城を促す鐘が鳴り響きます。
そして、八重は大小を腰におび、7連発のスペンサー銃を持って銃弾を避けながら鶴ヶ城に入城します。
しかし、新政府軍の洋式砲・洋式銃のすさまじい威力の前に死傷者が続出し、会津藩主松平容保は降伏を決意しました。
後に八重は降伏の使者が城門を出てゆくことを思い出し、「当日の事を考えると残念で、今でも腕を扼したくなります」と語っています。


新島襄との出会いと結婚生活

月日が流れ、明治4年(1871)2月に八重は母の咲・姪のみねとともに故郷の会津を後にし京都に向かいました。
その頃、八重の兄である覚馬は洋学者として京都府の顧問に迎えられていました。
京都にやってきた八重は、覚馬の影響で英語を学ぶようになり洋装の婦人として生活するようになりました。
翌年4月には、日本最初の女学校「女紅場」の舎監兼教師になりました。

八重と新島裏の出会いは明治8年(1857)頃でした。
新島八重子回想録にはこのような記録があります。
「ある日のこと、ゴルドンさんのお宅へ馬太伝を読みに参りますと、ちょうどそこへ襄が参っておりまして、玄関で靴を磨いておりました。私は、ゴルドンさんのボーイがゴルドンさんの靴を磨いているのだと思いましたから、別に挨拶もしないで中に通りました」

明治7年暮に帰国した新島襄は、大阪にキリスト教主義の学校を開設しようとしていましたが順調にいかず、京都でそれを実現しようとしていました。
襄はキリスト教に理解を示すようになっていた覚馬に接近し、八重も襄に聖書を習いにゆくようになります。
そして、明治8年10月15日八重は新島襄と婚約し、明治9年1月2日結婚式を挙げました。
襄32歳、八重30歳の時のことでした。

その後、襄の夢かない同志社英学校は明治9年11月に開設され、明治11年には同志社女学校が正式に開校されました。
八重はそこで礼法の教師を勤めることになります。
母の咲も洗礼を受け、明治11から16年まで女学校の舎監を勤めることになります。
山本家の人々は襄を助けて同志社の基礎を定かなものにしたのでした。

英語を学び西洋文化に触れキリスト教に入信した八重でしたが、世評は必ずしも良いものではありませんでした。
時には悪妻と評されます。
夫をジョーと呼び捨てにし、車にも夫より先に乗りました。
これは新島夫妻が互いの尊重の上で男女が等しく平等であるという姿勢を自ら世に示したものでしたが、男尊女卑の明治時代においては世間からは「悪妻」と評されました。
また時には、鵺(ぬえ)と評されることもありました。
八重の行動は、同志社英学校の生徒には先生である襄を軽んじていると映り、当時学生であった徳富蘇峰に「鵺」と罵倒されることもありました。

また、同志社英学校において、戊辰戦争の際に会津藩を攻めた薩摩長州出身学生を冷遇したり、問題を起こした兄嫁を義兄や襄が許しても家から追い出したりすることもありました。
このように西洋の感覚を身に着けながらも、武士の誇りと道徳にこだわり周囲と軋轢を生んでしまうこともありました。

しかし夫婦仲はとても良いものでした。
夫の襄はアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と書いています。
また、襄は八重を絶えず細やかに気遣っています。
明治17年にかけての欧米旅行中にアルプス登山で心臓発作を起したときのことを振り返って、「自分はそのとき非常に苦しんだ。諸君のことを思い妻のことを思い」と語っています。
また、八重も14年の結婚生活の中で療養する夫をよく気遣っています。
激務の谷間を縫うようにして療養する夫に付添って、北海道・鎌倉・伊香保・神戸に付き添い献身的に看病しています。

しかし襄と八重の別れの時がやってきます。
襄は明治23年1月23日、枕として左手を差し出した八重に「狼狽するなかれ、グッバイ、またあわん」と最後の言葉を残して47歳の生涯を終えました。


襄の死後と晩年

八重は襄の死後、社会福祉活動に尽くすことになります。
明治24年には、日赤篤志婦人会に入会しています。
明治27年に日清戦争が始まると、20数名の篤志婦人会の会員を率いて4カ月にわたって救護に勤めました。
日露戦争では58歳になっていましたが、再び大阪で救護活動を指揮しました。

襄の遺志を引き継いで、八重は遺産のすべてを同志社に寄付します。
そして昭和7年7月15日、急性胆嚢炎がもとで87歳の生涯を終えました。
葬儀は「同志社社葬」として4000人もの参列者がありました。
八重は今でも襄の隣で眠っています。


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新島八重ゆかりの地


会津若松市内、鶴ヶ城すぐそばにある八重の旧姓山本家の跡地には、それを記念する石碑と案内板が立てられています。
八重の誕生の地を偲ぶことができます。


八重の生い立ちと功績が記されている。(画像クリックで拡大)


山本覚馬・新島八重生誕の地に建てられている石碑。(画像クリックで拡大)


石碑と案内板を左手に見ながら、鶴ヶ城方向を望む。道路を進むと鶴ヶ城はすぐそこ。(画像クリックで拡大)


案内地図

新島八重ゆかりの地では、案内板と石碑を見ることができます。

ご注意
●生家跡は残っていません(石碑と案内板のみ)。現住所と新島八重との接点はありませんので、お問い合わせはご遠慮ください。
●駐車場はありません。路上駐車はご遠慮ください。
●東南に通る付近の道路は、一方通行です。