常光寺




おすすめポイント

常光寺本堂は長さが8間(約14.5メートル)・奥行き10間(約18メートル)の大きな建物で、本尊は阿弥陀如来・右側に虚空蔵尊、後ろには位牌堂が連なっています。本堂2階には書院があり、寺院建築としてめずらしい2階建ての本堂です。
常光寺と天海 常光寺は、慶雲3年(706年)に律宗の寺として建立されました。後に真言宗へと変わりましたが、さらにその後、元和9年(1623年)に会津高田(現在の福島県会津美里町)生まれの天海(安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の大僧正)から免許状を与えられ、天台宗へと改宗します。
改宗がなされた当時、瑞竜院成秀という僧は真言の教えに疑いを抱き、比叡山で天台宗の教えを受けることにします。同時期に比叡山南光坊にいた天海の薫陶も受けたことから、常光寺は比叡山南光坊の末寺となっています。

これらの常光寺に関する情報は、享和3年(1803年)から文化6年(1809年)にかけて編さんされた「新編会津風土記(あいづふどき)」にも、記録が残されています。

新編会津風土記より常光寺 境内東西56間半(約102.7メートル) 南北50間(約91メートル)免除地
この町の北頬にあり
山号を松林山といい比叡山南光坊の末寺天台宗なり
開基の初詳ならず(旧事雑考に永和4年(1378年)黒川浄光寺建と記し当寺の事なるべしと伝えり)旧事雑考とは会津旧事雑考のこと。後述。
初は律宗なりしが後真言宗となる。元和年中成秀という僧また台家となり僧正天海に謁して叡山の直末となる。因て成秀を中興とす
本尊弥陀客殿に安ず。成秀護持の像にて古物なり

宝物
元三大師像 一軀(いっく)尊敬法親王※1寄付 長さ1尺2寸(約45.6センチメートル)の座像なり
如意輪観音像 一軀(いっく)行基※2作と言い伝えられる 長さ2尺5寸5分(約96.9センチメートル)
不動像 一軀(いっく)日光山大楽院※3寄付なり 長さ1尺6寸5分(約62.6センチメートル)
僧正天海文書 一通 直末免許の状なり その文書は左

會津黑川今號若松常光寺雖為大乘律近年紛亂之間屬
舊規度之由就訴訟稱山門直末自今以後彌以御門流之
顯密相續不可有怠慢之旨宜令承知者也
元和九癸亥年四月廿四日
山門探題大僧正天海判

※1尊敬法親王または守澄法親王。寛永11年(1634年)- 延宝8年(1680年)。初代輪王寺宮門跡(日光門跡)。東叡山(寛永寺)・日光山(輪王寺)貫主。天台座主。
※2日本の仏教僧。(668年) - 天平21年(749年)。
※3日光東照宮 大楽院。


会津旧事雑考 会津旧事雑考とは寛文12年(1672年)に向井吉重が記した書物で、会津に起きた出来事が記録されているものです。新編会津風土記では会津旧事雑考を元にした情報が記されています。国立公文書館デジタルアーカイブで公開されています。


常光寺の威容 かつて常光寺は広大な敷地を有しており、「四方堀の常光寺」と言われていました。四方を堀によって囲まれその敷地は1町歩(約1ヘクタール)を誇りました。その庭園には築山があり、伽藍(がらん 寺の建物)も壮大なものであったと伝えられています。それを裏付けるものとして、明治17年(1884年)の地積測量図には常光寺の周りに堀があったことが記録されています。

しかしその壮大な建物は数度の火災によって消失してしまいました。
その後、慶応3年(1866年)には羽黒山東光寺※4の本堂を貰い受け、舞台造(主に寺社建築に用いられる、長い柱で床下を固定しその上に建物を建てる建築様式。 懸造または 崖造とも)として再建されましたが、明治16年(1883年)5月1日に若松で発生し合計1500戸焼失した大火によって再建された本堂も失われました。
そのため現在残る本堂は昭和54年(1979年)に増改築された建物となっています。

常光寺には、会津地方の仏教歴史が記録されている「会津寺院縁起」という貴重な文献が残されています。また野出蕉雨※5の屏風二双や海東五兵衛※6の墓もあり、長い歴史が伝えられる場所となっています。

※4 羽黒山東光寺。現在の東山温泉にある羽黒山神社(福島県会津若松市東山町大字湯本字 寺屋敷11)。
天平元年(729年)、高僧行基が羽黒山東光寺として草創された。その後、明治時代の廃仏毀釈で寺は廃され羽黒山湯上神社となった。

※5 野出蕉雨(のでしょうう)弘化4年(1847年)、若松米代三の丁生まれの絵師。
会津藩士である塩田牛渚に南宋画を学んだ。松平容保が京都守護職として上洛すると野出蕉雨も京都へ上洛。その後戊辰戦争において勢至堂の戦い・籠城戦にも参戦した。戊辰戦争後は農業や裁判所に雇われていたが、現在の会津美里町本郷 瀬戸町に住み陶画の指導を始める。
明治10年(1877年)ごろから本格的な制作活動を開始、明治17年(1884年)に上京し長崎派の滝 和亭(たき かてい)のもとで制作に励んだ。近代日本画と呼ばれる画風が登場する前に、独自のスタイルを完成させた野出蕉雨は高い評価を受けている。

※6海東五兵衛。会津塗の塗師または豪商と伝えられる。

福満虚空蔵尊 常光寺は度々の火災消失のたびに再建された。写真は明治24年(1891年)3月に再建されたもの。現在の建物は昭和54年(1979年)に増改築されたが、入り口の屋根部分に名残がある。

常光寺の虚空蔵菩薩は、加藤嘉明の守本尊としてその兜にあった。松平家時代には鶴ヶ城内延壽寺の護摩堂に本尊として安置され、歴代藩主が信仰した。
言い伝えによると、松平容保が京都守護職にあった際、病気にかかるとその夢枕に虚空蔵菩薩が現われ、「七日町 常光寺に遷座せよ」とのお告げをうけた。
文久3年(1863年)10月12日に常光寺に移されると松平容保の病気は快復したという伝説が残る。
ディープラーニングによる着色


多くの人が集まる賑わい 寛延2年(1749年)12月、会津藩史上最大の農民一揆が起こります。作物の不作にもかかわらず年貢が重いことが原因でしたが、この一揆をきっかけに会津藩では様々な農業以外の産業振興が奨励されるようになっていきました。
それと共に、保科正之によって領内で厳禁とされた、歌舞伎・浄瑠璃語・獅子舞・会津万歳(舞いながら滑稽なやりとりが行われる)が解禁されます。

興行に関する記事が記された「日暮延命物語」によると、天明7年(1787年)11月には、江戸大相撲の鬼面山(1826年-1871年 第13代横綱)・小野川一行が常光寺境内にて興行し大評判になったことが記録されています。

寛政3年(1791年)には、常光寺に隣接した広場に「劇場人形座」が建設されました。2月27日は無料で一般公開され、3月1日からは見物料金をとって人形竹田一座の興行が行われました。 その後も名役者であった森田勘弥が、仮名手本忠臣蔵・糸桜寺町育・恋女房染分手綱、などの演目を演じて興行は大当たりとなりました。

劇場人形座には当時の会津藩校日新館の生徒たちも見学に訪れています。
その後も盆踊り・見世物小屋・相撲・サーカスなどで賑わい、城下の活性化の口火となり、他の町にも芝居小屋が建設されていくことになります。

明治26年(1893年)には、この場所に塚原元吉(1878年)が「若松座」を建設しました。
大正初期の会津日報には「大正3年に会津で初めて活動写真も若松座で上映され、翌年には活動写真常設の若松館と改称した」と報道されています。
若松座は「芝居小屋若松劇場」とも呼ばれ、七日町の繁華街に常設された芝居小屋として、さらに会津地方唯一の常設芝居として多くの人々が集まる場所となりました。
さらに当時の関係者の証言によれば、「若松座には回り舞台があり、映画の他に芝居や浄瑠璃などを興行した。昭和14年ごろに閉館・取り壊し下宿業を営んだ」といいます。

同じ頃、常光寺境内には盆踊り用のやぐらも建てられています。現在の清水屋 会津桐下駄の裏には、一心亭という寄席も建てられました。
その後、明治時代中期には七日町北側の磐見町に遊郭ができています。現在では姿を消した遊郭ですがその雰囲気は現在でも一部の建物に残っています。
さらに明治41年(1908年)、会津若松に歩兵第65連隊が常駐するようになると、遊郭や芝居小屋がある常光寺付近も繁華街として賑わいが最高潮の時期を迎えました。


若松劇場 大正時代初め頃に撮影された「芝居小屋若松劇場」の上棟式。骨組みからも特徴があり目立つ建物だったことが想像できる。


若松座 若松座の宣伝用絵葉書。大正時代の娯楽の進歩の一つとして活動写真を挙げることができる。若松では大正4年(1915年)に初めての常設活動写真館(栄楽座)がオープンした。同じ年にオープンしたのが常光寺隣りの若松座であった。


七日町の芸妓 明治時代の末に撮影された七日町の芸妓。
ディープラーニングによる着色とノイズ補正


現代では、「お日市」と呼ばれる町内ごとにまつられてきた神社・仏閣などのお祭りも開催され賑わっています。
同じ敷地にはめぐりあい観音と呼ばれる観世音菩薩像が安置されています。

めぐりあい観音 言い伝えによると、京都の宇治に茶造りを商売にして暮していた傳右衛門という人がいた。
傳右衛門には名を傳七という一人の子供がいたが家を出てしまった。傳右衛門は老いの身を六十六部(修験僧)に替え、観音菩薩像を背負い国中を深して歩いた。
若松に寄り常光寺を訪ねお茶を飲ませてもらうと、それは自分が造っていたお茶と同じ味であった。お茶を入れてくれた寺の修行僧こそが傳七だったのである。
傳右衛門は息子とめぐり合った常光寺に観音菩薩像を安置し祀った。
「まいるより 常の光をたのむかな 二世かけて 祈る身なれば」




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