阿弥陀寺について



阿弥陀寺 阿弥陀寺

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阿弥陀寺は慶長8年(1603年)に開基されたお寺です。そして多くの歴史の舞台ともなってきたお寺でもあります。

寺の始まりと倉田為実阿弥陀寺を開基した下野国生まれの良然は、陸奥国安積郡(現在の郡山市)にある、善導寺(福島県郡山市清水台1丁目1-23)に住職として住んでいました。しかし、良然は病気にかかってしまい会津若松の東山温泉に湯治に来ることになります。
当時、会津を支配していた蒲生秀行の家臣であった板倉は、会津に逗留していた良然をそのまま会津に留め置こうとします。そのため秀行に土地を賜り阿弥陀寺の開基のために奔走しました。

さらに板倉以外にも、阿弥陀寺の開基のため多くの人々が協力しています。
そのような協力者の一人として倉田為実という人物がいました。倉田為実は、大町四つ角付近に屋敷を構えており豪商であるとともに検断(警察や検察)としての地位にありました。

元々倉田氏は、蒲生氏郷が会津に移封されたのに伴い同時期に日野(滋賀県日野町)から会津に入ったと言われています。
一方で「倉田氏家譜」(倉田秀治編 1971年)によれば、倉田為実は永禄5年(1562年)には会津に移住していたとされています。これは氏郷が会津に来る28年前であり、氏郷に会津に来る頃には倉田氏の地盤は固められていたことになります。
どちらにしても、阿弥陀寺建設の時期にはすでに倉田氏の力は大きなものになっていました。

一方で、倉田氏が会津に移住した理由については分かっていません。
しかし為実が18歳の時に兄である与左衛門と共に黒川(会津若松)にやってきて、柳津町福満虚空蔵尊圓蔵寺に参拝したこと、その後与左衛門は伊達郡に定住したが、為実は会津に定住したとされる記録は残っています。

このように、倉田氏は力を持っており加えて熱心な浄土宗信者でもあったことから阿弥陀寺建設の援助を行うこととなります。そして「阿弥陀寺」という寺の名前も、倉田為実の故郷であった阿弥陀寺から命名したものとも言われています。

大町四つ角にある倉田氏の屋敷現在の大町四つ角付近にある倉田氏の屋敷。倉田氏と共に検断の役にあった簗田氏屋敷も描かれている。

そのような大勢の人々の尽力の結果、阿弥陀寺の壮大な建物が完成しました。そして元和4年(1618年)には僧侶130人あまりが集まり、大規模な法会が行われています。

その後、寛永時代(1624-1643年ごろ)には会津若松城下でも有数の規模を誇る寺となっていましたが、その後の火災によって大きな被害を受けることになります。唯一残ったのは、本尊の阿弥陀如来像だけでした。
幕末には、復旧も困難なほどでありかつての隆盛を誇った阿弥陀寺は見る影もありませんでした。
戊辰戦争と伴百悦幕末期に起きた戊辰戦争では、会津藩の戦死者の遺体が阿弥陀寺に埋葬されるという出来事がありました。
当時、悲惨な爪痕を残した戊辰戦争では、戦死者の遺体は城下の各地に仮埋葬されていました。それらの遺体の正式な埋葬が許可されたのが、この阿弥陀寺と長命寺(福島県会津若松市日新町5-51)の2つだけでした。

当初、新政府軍によって遺体の埋葬が許可されたのは会津若松市内の小田山付近でした。そこは会津藩の馬や犯罪人が埋葬されてきた不浄と言われていた土地です。そのようなところに埋葬するということに会津の人々は猛反発します。
そこで代わりに指定されたのが、会津藩の処刑場近く(現在の会津若松市橋本涙橋付近)にあり当時荒れ果てていた阿弥陀寺だったのです。

阿弥陀寺では明治2年(1969年)の雪どけの後に埋葬が始まりました。阿弥陀寺境内には1.5メートル四方の大きな穴が掘られ、城下から集められた遺体が埋葬されました。それらの墓には壇が建てられ、その周りには木の柵、そして上には松が植えられました。
その時の様子は「戦死之墓所麁絵図」に描かれています。

阿弥陀寺に築かれた戦死の壇阿弥陀寺
戦死の壇東西四間余
南北拾式間、高サ四尺
七月五日六日七日
八宗大施餓鬼
供養致候事


阿弥陀寺に築かれた壇阿弥陀寺
天朝より諸寺院中の土ヲ集、壇ヲ
築、二月中如レ此出来ニ及。
大垣(東西三間 南北四間弐尺)
壇 (高サ七尺 弐間一尺五寸四方)
遙拝所、三月八日九日官軍所ヨリ
大施餓鬼致候事


戦死之墓所麁絵図を残した「伴百悦」は、会津藩に仕え戊辰戦争でも萱野隊副将として新潟方面を転戦しました。
その後、戊辰戦争が終わるまで鶴ヶ城を死守し、戦いが終わった後は会津藩戦死者の埋葬のために奮闘した人物です。

当時一般的な身分制度の中では士農工商の下に賤民とされていた人々がおり、それらの人々が犯罪人の遺体を埋葬するなどしていました。
そして戊辰戦争後には、会津藩士の遺体も犯罪人として賤民の人々によって扱われていました。
賤民の人々によって行われる埋葬は、犯罪人の遺体と同じく石や瓦を投げ捨てるように会津藩士の遺体を扱っていたと言われています。

これに心を痛めた伴百悦は、自分たちの手で埋葬することを何度も命がけで訴えました。
しかし新政府軍によってその訴えは退けられます。それで最後の手段として、伴百悦自らが地位を捨て賤民となることで自らの手で埋葬の指示を行ったのです。

これには新政府軍も心を打たれ、伴百悦を改葬方として任命し会津藩士の埋葬を監督させました。
伴百悦は阿弥陀寺の他にも約16ヶ所で埋葬の指示をし、その時の記録として「戦死之墓所麁絵図」を残しています。

このように埋葬が行われたのと同じ年、鶴ヶ城にあった御三階がこの地に移設されています。火災によって消失していたこれまでの本堂に変わり、移設された御三階が埋葬された人々を弔うための本堂とされました。
この御三階は外側から見ると3層の建物ですが、内部は4層になっており時には密談にも使用されていたと伝わっています。

鶴ヶ城内御三階跡の案内板鶴ヶ城(会津若松城)内、御三階跡に立つ案内板。

鶴ヶ城内御三階跡鶴ヶ城内の御三階跡。土台や建物のおおよその面積が分かる。

鶴ヶ城内御三階跡と天守閣御三階は鶴ヶ城本丸内に位置していた。手前には御三階跡・正面には天守閣・左手には茶室麟閣がある。

阿弥陀寺と大仏明治に入ると、日本各地で廃仏毀釈(明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊運動)の風が吹き荒れました。
この会津にも、飯盛山の旧正宗寺(現さざえ堂 会津若松市一箕町八幡滝沢155)には大仏がありました。しかし廃仏毀釈によって破壊されかけたため、その大仏は阿弥陀寺に移されています。

阿弥陀寺御三階からのの大仏阿弥陀寺の大仏と七日町通り。明治初期に御三階から撮影されたものと思われる。当時の七日町通りはほとんどがわらぶきの屋根であり、当時の生活が伝わる。

阿弥陀寺境内と大仏阿弥陀寺境内。明治末期に撮影されたものと思われる。右端には大仏が写っている。

阿弥陀寺境内と大仏阿弥陀寺。左端には大仏が写っている。モノクロ写真をディープラーニングにより色付け。

その後大仏は、昭和19年(1944年)に第二次世界大戦中に金属が必要になったために供出されています。そして、現在はその台座が残るのみとなっています。

数々の困難を乗り越えて今に至る阿弥陀寺。
そんな阿弥陀寺の歴史を感じてみませんか?
御朱印について阿弥陀寺では現在御朱印はありません。

しかし、会津東軍墓地の御朱印を阿弥陀寺向かいの、七日町観光案内所で承っています。
定休日などを公式サイトでご確認の上お越しください。

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