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阿弥陀寺



阿弥陀寺
阿弥陀寺

おすすめポイント
阿弥陀寺は慶長8年(1603年)に開基されたお寺です。そして多くの歴史の舞台ともなってきたお寺でもあります。

寺の始まりと板倉修理・倉田為実阿弥陀寺を開基したのは、下野国真壁郡(現在の栃木県と茨城県の一部を含む)生まれの良然(廓蓮社 良然上人)です。
良然は、陸奥国安積郡(現在の郡山市や二本松市の一部を含む)にある善導寺に住職として住んでいました。しかし、良然は病気にかかってしまい会津若松の東山温泉に湯治に来ることになります。

当時、会津を支配していた蒲生秀行の家臣であった板倉修理は、方外の友である良然をそのまま会津に留めようとします。そのため秀行に土地を賜り阿弥陀寺の開基のために奔走しました。
蒲生家の家臣名簿とも言える「蒲生家分限帳」には板倉修理の名前も掲載されており、それを見ると「馬廻り9番 石高700石」という身分だったことが分かります。
会津藩士の中で500石以上の収入を得ていたのは家臣全体の約10%の割合だったことを考えると、板倉修理は上位の身分であり寺を開基するための力を持っていたと推測できるのではないでしょうか。

コラム 板倉修理の氏名について

良然の友であり、阿弥陀寺建設で活躍した蒲生家家臣 板倉修理。当サイトでは名字を「板倉」としています。
文献によって名字に違いがあるようですが、これは元になった家臣名簿(分限帳・支配帳)の痛みが激しく判別できないケースがあるようです。
ここでは蒲生家家臣の一覧から、板倉修理と思われる氏名をご紹介します。

●近江日野町志 巻上 日野町教育会編(1930年)
近江日野町志の中に、岡崎家に伝わる「蒲生家支配帳」が紹介されています。これによると元の書状には天保15年(1844年)に原本が虫食いのために手入れが行われたことが記載されています。
この蒲生家支配帳には、蒲生氏郷時代とその約8年後の秀行時代の家臣の禄高が比較されています。
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208250/226
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208250/228
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208250/246

近江日野町志 巻上 倉掛修理 蒲生氏郷家臣として「倉掛修理」の名前がある。石高は700石。

近江日野町志 巻上 上段下段 上段が蒲生氏郷時代・下段が蒲生秀行時代。元の書状には虫食いに関する但し書きがついていることが掲載されている。

●蒲生忠知公伝 西園寺源透 著(1933年)
蒲生忠知公伝の中では、蒲生家家臣の松山での知行と会津での知行が比較されています。
原本は、仙波隆太郎氏所蔵「蒲生支配帳」と、治城内庫(松山藩文庫)の「蒲生家雀」・「幕府隠密の記」と符合したと記されています。
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112640/31
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112640/45
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112640/30

蒲生忠知公伝 倉坂修理 「倉坂修理」の名前がある。石高は700石。

蒲生忠知公伝 松山と会津 仙波隆太郎氏所蔵 松山と会津の比較・仙波隆太郎氏所蔵の蒲生支配帳が原本であることが記されている。

●会津文化財 4号 会津文化財調査研究会編(1984年)
この本の特集「弥勒寺「蒲生家分限帳」山ノ内岑生」の中では、弥勒寺(みろくじ)(福島県会津若松市大町1丁目5-1)にかつて保管されていた蒲生家分限帳が紹介されており、以下の説明があります。

「文久元年(1861年)、当山開基蒲生秀行公250回遠忌に際し、弘真院住職が蒲生家の分限帳なるものを取調べ製本し、寺の什宝とした。その後の明治16年、弘真院住職が弥勒寺に転住するようになってからは、弘真院の書類等も総て弥勒寺において保管されるようになったが、明治29年6月、弥勒寺火災の際にこの分限帳もまた烏有に帰した。しかし幸なことに、加藤長四郎氏がこの分限帳を書写して所持しておられたので、氏に依頼して浄写製本した (明治42年頃)のがこの家臣録である」

弥勒寺「蒲生家分限帳」では、「倉垣修理 700石」と記載されています。


このように、蒲生家家臣が掲載されている分限帳は痛みが激しく、写本が繰り返されてきました。そのため、写本の過程で誤記が生じたり判別できない氏名もあったと推察できます。
これまで紹介したそれぞれの資料に掲載された性をまとめると以下の通りです。
倉掛修理(近江日野町志:岡崎家所蔵 蒲生家支配帳)
倉坂修理(蒲生忠知公伝:仙波隆太郎氏所蔵 蒲生支配帳・治城内庫 蒲生家雀・幕府隠密の記)
倉垣修理(会津文化財 4号:弥勒寺 蒲生家分限帳)

当サイトでは、原本を確認できる「新編会津風土記」(詳細は後述)内の「板倉某」という記載を元にし、「板倉修理」と表記しています。
(調査継続中)

さらに板倉以外にも、阿弥陀寺の開基のため多くの人々が協力しています。
そのような協力者の一人として倉田為実(くらたためざね)【後に剃髪し倉田道拓と名乗る】という人物がいました。倉田為実は、大町四つ角付近に屋敷を構えており豪商であるとともに検断(警察や検察)としての地位にありました。

元々倉田氏は、蒲生秀行の父である蒲生氏郷が会津に移封されたのに伴い同時期に日野(滋賀県日野町)から会津に入ったと言われています。
一方で「倉田氏家譜」(倉田秀治編 1971年)によれば、倉田為実が18歳の時、永禄5年(1562年)には会津に移住していたとされています。これは氏郷が会津に来る28年前のことでした。
倉田為実は猟銃製造を家業としていましたが、文禄元年(1592年)に行われた蒲生氏による城下町大変革に与力として参加し、その功によって大町四つ角付近に土地を賜り大町地区の町年寄(後の検断)となりました。
このように、阿弥陀寺建設の時期にはすでに倉田氏の力は大きなものになっていました。

一方で、倉田氏が会津に移住した理由については分かっていません。
しかし為実が18歳の時に兄である与左衛門と共に黒川(会津若松)にやってきて、柳津町福満虚空蔵尊圓蔵寺に参拝したこと、その後与左衛門は伊達郡に定住したが、為実は会津に定住したとされる記録は残っています。

このように、倉田氏は力を持っており加えて熱心な浄土宗信者でもあったことから阿弥陀寺建設の援助を行うこととなります。そして「阿弥陀寺」という寺の名前も、倉田為実の故郷であった阿弥陀寺から命名したものとも言われています。

大町四つ角にある倉田氏の屋敷現在の大町四つ角付近にある倉田氏の屋敷。倉田氏と共に検断の役にあった簗田氏屋敷も描かれている。

そのような大勢の人々の尽力の結果、阿弥陀寺の壮大な建物が完成しました。そして元和4年(1618年)には僧侶130人あまりが集まり、大規模な法会が行われています。

その後、寛永時代(1624-1643年ごろ)二代目良仙の頃には会津若松城下でも有数の規模を誇る寺となっていましたが、正保2年(1645年)四代目良頓時代の大火災で建造物は全て失われてしまいました。さらにその後の火災によっても大きな被害を受け、唯一残ったのは本尊の阿弥陀如来像だけだったのです。
幕末には、復旧も困難なほどでありかつての隆盛を誇った阿弥陀寺は見る影もありませんでした。
御三階(後述)による仮本堂を経て、現在の本堂が建立されたのは、昭和50年(1975年)になってからのことでした。

これらの阿弥陀寺に関する歴史は、享和3年(1803年)から文化6年(1809年)にかけて編さんされた「新編会津風土記(あいづふどき)」にも、記録が残されています。
「会津風土記」は、会津藩主 保科正之の名により、寛文6年(1666年)に完成しましたが、それを補完する情報も含まれた新編として完成したのが「新編会津風土記」でした。
「新編会津風土記19巻 若松の5 下町」には阿弥陀寺についてこのように書かれています。

阿弥陀寺
こちらの町(七日町)より北小路町に通じる小路にあり、正覚山と称した。
現在の栃木県真壁の大沢円通寺末山 浄土宗である。
寺を開基した僧は良然といい真壁の生まれ。安積郡(現在の郡山市や二本松市の一部を含む)の善導寺に住んでいたが、病の治療のために会津に来て、数年仮住まいしていた。
蒲生秀行の家臣に板倉某(板倉修理)というものがいた。かつて良然と方外の友だったので、秀行に願い出て慶長8年(1603年)にこの寺を開いた。
その時、倉田某(倉田為実)が現在の滋賀県より来てこの地に家をかまえていたが、資財をだしてそれを助けた。
仏像を安置し礼拝する建物・僧のための宿舎・多目的な建物は大きく立派なもので全て備えられていた。
これにより園通寺の末山となった。
元和4年(1618年)、高僧130人あまりが集まって大法会がもうけられた。
4月から7月まで行事が行われ、今にまで伝わるような大きな催しとなった。
良然は後に見性寺を開いて隠居寺とした。
その後阿弥陀寺は火災で消失し、仏像を安置し礼拝する建物・僧のための宿舎は復旧されなかった。唯一阿弥陀の像のみ残り客殿に安置された。良然が守ったものだろうと言われている。

新編会津風土記より阿弥陀寺阿彌陀寺 境内千四百三十四歩免除地
(阿弥陀寺 境内千四百三十四歩免除地)

此町より北小路町に通する小路にあり 正覺山と號す
(此町より北小路町に通する小路にあり 正覚山と号す)

下野國眞壁郡 大澤圓通寺末山 淨土宗なり
(下野国真壁郡 大沢円通寺末山 浄土宗なり)

開基の僧を良然と云い真壁郡の産にて 本州安積郡善導寺に住し 疾あるにより療治のため會津に來たり 數年寓居せり
(開基の僧を良然と云い真壁郡の産にて 本州安積郡善導寺に住し 疾あるにより療治のため会津に来たり 数年寓居せり)

蒲生秀行の家臣 板倉某と云う者 曾て良然と方外の知己なりし 故秀行に請て慶長八年に此地を開く
(蒲生秀行の家臣 板倉某と云う者 曽て良然と方外の知己なりし 故秀行に請て慶長八年に此地を開く)

其時倉田某近江國より來り 此鄕に家居せしが資財を出してこれを助く
(其時倉田某近江国より来り 此郷に家居せしが資財を出してこれを助く)

佛殿衆寮方丈小院巨麗にして皆備れり
(佛殿衆寮方丈小院巨麗にして皆備れり)

是に於いて圓通寺の末山となる
(是に於いて圓通寺の末山となる)

元和四年 龍象一百三十餘員を集て大法會を設く
(元和四年 龍象一百三十余員を集て大法会を設く)

四月より七月まで法門を修行す 今に至るまて相傳えて淨門の盛事とす
(四月より七月まで法門を修行す 今に至るまて相伝えて浄門の盛事とす)

良然後に見性寺を開いて隱居せり
(良然後に見性寺を開いて隠居せり)

其後當寺火災に燒亡し佛殿衆寮舊の如くならず 唯彌陀の靈像のみ傳て客殿に安す 良然護持の物と云
(其後当寺火災に焼亡し佛殿衆寮旧の如くならず 唯弥陀の霊像のみ伝て客殿に安す 良然護持の物と云)


コラム 良然ゆかりの寺

現在の栃木県益子町の生まれであった良然は、福島県内の多くの寺院と関わりをもっていました。
良然ゆかりの寺をご紹介します。
●確実なもの ▲調査継続中

▲梅松寺 福島県伊達郡川俣町小島北成沢3
天正4年(1576年)良然により創建

●円通寺 栃木県芳賀郡益子町大沢1770
会津若松市 阿弥陀寺は円通寺の末寺として建設

●善導寺 福島県郡山市清水台1丁目1-23
天正7年(1579年)円通寺(栃木県益子町)第15世良信の弟子良吸(良岌)により創建

▲善導寺 福島県二本松市針道佐勢ノ宮1
天正7年(1579年)良然により創建とされるが詳細不明

▲無能寺 福島県伊達郡桑折町上町4
慶長元年(1596年)良然が創建

●阿弥陀寺(会津若松市七日町)
慶長8年(1603年)良然が開基

●見性寺 福島県会津若松市日新町16-36
元和5年(1619年)良然の隠居寺として建設。元和8(1622年)この寺で死去

戊辰戦争と伴百悦 幕末期に起きた戊辰戦争では、会津藩の戦死者の遺体が阿弥陀寺に埋葬されるという出来事がありました。
当時、悲惨な爪痕を残した戊辰戦争では、戦死者の遺体は城下の各地に仮埋葬されていました。それらの遺体の正式な埋葬が許可されたのが、この阿弥陀寺と長命寺(福島県会津若松市日新町5-51)の2つだけでした。

当初、新政府軍によって遺体の埋葬が許可されたのは会津若松市内の小田山付近でした。そこは会津藩の馬や犯罪人が埋葬されてきた不浄と言われていた土地です。そのようなところに埋葬するということに会津の人々は猛反発します。
そこで代わりに指定されたのが、会津藩の処刑場近く(現在の会津若松市橋本涙橋付近)にあり当時荒れ果てていた阿弥陀寺だったのです。

阿弥陀寺では明治2年(1969年)の雪どけの後に埋葬が始まりました。阿弥陀寺境内には1.5メートル四方の大きな穴が掘られ、城下から集められた遺体が埋葬されました。それらの墓には壇が建てられ、その周りには木の柵、そして上には松が植えられました。
その時の様子は「戦死之墓所麁絵図」に描かれています。

阿弥陀寺に築かれた戦死の壇阿弥陀寺
戦死の壇東西四間余
南北拾式間、高サ四尺
七月五日六日七日
八宗大施餓鬼
供養致候事


阿弥陀寺に築かれた壇阿弥陀寺
天朝より諸寺院中の土ヲ集、壇ヲ
築、二月中如レ此出来ニ及。
大垣(東西三間 南北四間弐尺)
壇 (高サ七尺 弐間一尺五寸四方)
遙拝所、三月八日九日官軍所ヨリ
大施餓鬼致候事


戦死之墓所麁絵図を残した伴百悦(ばんひゃくえつ 1827年 - 1870年)は、会津藩に仕え戊辰戦争でも萱野隊副将として新潟方面を転戦しました。
その後、戊辰戦争が終わるまで鶴ヶ城を死守し、戦いが終わった後は会津藩戦死者の埋葬のために奮闘した人物です。

当時一般的な身分制度の中では士農工商の下に賤民とされていた人々がおり、それらの人々が犯罪人の遺体を埋葬するなどしていました。
そして戊辰戦争後には、会津藩士の遺体も犯罪人として賤民の人々によって扱われていました。
賤民の人々によって行われる埋葬は、犯罪人の遺体と同じく石や瓦を投げ捨てるように会津藩士の遺体を扱っていたと言われています。

これに心を痛めた伴百悦は、自分たちの手で埋葬することを何度も命がけで訴えました。
しかし新政府軍によってその訴えは退けられます。それで最後の手段として、伴百悦自らが地位を捨て賤民となることで自らの手で埋葬の指示を行ったのです。

これには新政府軍も心を打たれ、伴百悦を改葬方として任命し会津藩士の埋葬を監督させました。
伴百悦は阿弥陀寺の他にも約16ヶ所で埋葬の指示をし、その時の記録として「戦死之墓所麁絵図」を残しています。

このように阿弥陀寺に会津藩士の遺体を葬ることは許されましたが、墓標を建てることは許されませんでした。
明治6年(1873年)になり墓標を建てることが許されましたが、大庭恭平(会津藩士 1830年 - 1902年)による「殉難之霊」という文字に対し、明治政府は「殉難」という文字を使うことすら許しませんでした。その結果、墓標には「戦死墓」と刻まれることになります。
伴百悦はこのような明治政府の扱いに怒り、民生局監察方兼断獄の地位にあり悪名高かった久保村文四郎を束松峠(福島県会津坂下町)で斬殺しました。

明治戊辰戦争殉難者墓現在建てられている明治戊辰戦争殉難者墓。


御三階の移築 明治4年(1971年)、鶴ヶ城にあった御三階がこの地に移設されています。火災によって消失していたこれまでの本堂に変わり、移設された御三階が埋葬された人々を弔うため仮の本堂とされました。
この御三階は外側から見ると3層の建物ですが、内部は4層になっており時には密談にも使用されていたと伝わっています。
御三階は本来は鶴ヶ城の櫓であったため、寺の仮本堂として使用するために鶴ヶ城本丸にあった大書院の玄関を継ぎ足し、入り口を整えました。そのため鶴ヶ城本丸跡に残っている御三階の石垣と寸法が合っていないと言われています。

阿弥陀寺横に建つ御三階阿弥陀寺境内に建つ御三階。寺の屋根の高さと比べると御三階の大きさが分かる。

阿弥陀寺境内にある御三階についての案内板阿弥陀寺境内ある御三階についての案内板。

鶴ヶ城の遺構
御三階 ごさんがい
江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城本丸にありましたが、明治3年にこの地に移されました。外観は3階ですが、内部は4層になっており、2階と3階の間に天井の低い部屋があります。
3階に上る梯子は用のない者が上がれないように、上から引き上げる仕組みになっており、当時は密議所に使用されていたと思われます。
また、本丸北東の正方形の石垣の上に建っていたところから、物見や展望台の役目を果たしていました。
戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が消失したために、長く本堂として使用されてきました。玄関の唐破風は城内本丸御殿の玄関の一部を配したものです。鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物です。
【参考文献】
「会津大事典」(会津大事典編纂会発行・国書刊行会刊)
「会津歴史年表(会津史学会発行・歴史春秋社刊)
七日町町並み周辺整備事業 (財)東日本鉄道文化財団・七日町通りまちなみ協議会


案内板で紹介されている、御三階 玄関の唐破風案内板で紹介されている、御三階 玄関の唐破風

裏手から見上げる 阿弥陀寺境内 御三階裏手から見上げる 阿弥陀寺境内 御三階。外側から見ると3階建てに見える。

 阿弥陀寺境内 御三階横に佇む黒河内伝五郎(黒河内兼規)の墓 阿弥陀寺境内 御三階横に佇む黒河内伝五郎(黒河内兼規)の墓。

会津藩最強の武芸者 黒河内伝五郎の墓
幕末会津藩の武芸家で、兼規または義信ともいう。家芸の居合術だけでなく、神夢想一刀流剣術、宝蔵院流高田派の槍術、その他薙刀、手裏剣、鎖鎌など武芸百般を極め、藩校日新館で武芸指南役を務めていた。
長州・萩に招かれたこともあり嘉永五年(1852)に吉田松陰が会津を訪れたとき、ひそかに日新館を見学させた。
会津藩最強の剣客といわれ、晩年は失明したが、座頭市を彷彿させるように武芸の技は衰えることがなかったという。会津戊辰戦争で長男義次は戦死、次男義兼は負傷。西軍が城下に攻め入った慶応四年(1868)八月二十三日、伝五郎は次男を介錯した後、自決した。六十五歳だった。
古武士を思わせるような典型的な会津人で、平成二十五年NHK大河ドラマ「八重の桜」にも登場している。
■墓碑中央に「進義院剣光尽忠居士」と刻まれ、右が長男、左が二男の法名である。
左隣の墓碑は母か夫人のものと思われる。


阿弥陀寺に移築される前に御三階が建っていた鶴ヶ城にも、御三階についての案内板が建てられています。
鶴ヶ城内御三階跡の案内板鶴ヶ城(会津若松城)内、御三階跡に立つ案内板。

鶴ヶ城内御三階跡鶴ヶ城内の御三階跡。土台や建物のおおよその面積が分かる。

鶴ヶ城内御三階跡と天守閣御三階は鶴ヶ城本丸内に位置していた。手前には御三階跡・正面には天守閣・左手には茶室麟閣がある。

阿弥陀寺と大仏 明治に入ると、日本各地で廃仏毀釈(明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊運動)の風が吹き荒れました。
この会津にも、飯盛山の旧正宗寺(現さざえ堂 会津若松市一箕町八幡滝沢155)には唐金(銅と錫の合金・青銅)でつくられた高さ3.6メートルの大仏(毘盧遮那仏 びるしゃなぶつ 大乗仏教の仏像)がありました。しかし廃仏毀釈によって破壊されかけたため、その大仏は阿弥陀寺に移されています。

その後大仏は、昭和19年(1944年)に第二次世界大戦中の金属不足の時期に供出されました。そして、現在はその台座が残るのみとなっています。

阿弥陀寺御三階からのの大仏阿弥陀寺の大仏と七日町通り。明治初期に御三階から撮影されたものと思われる。当時の七日町通りはほとんどがわらぶきの屋根であり、当時の生活が伝わる。

阿弥陀寺境内と大仏阿弥陀寺境内。明治末期に撮影されたものと思われる。右端には大仏が写っている。

阿弥陀寺山車祭り明治32年(1899年)の会津若松市市制施行・または明治41年(1908年)の歩兵第65連隊常駐の記念行事、どちらかの時期に撮影されたもの。祝賀行事の際に阿弥陀寺から七日町の山車太鼓台が出発するところ。左手の大仏前の戊辰戦争戦没者の墓は改修前のもの。墓が改修されたのは大正3年(1914年)であった(次の写真も参照)。

阿弥陀寺境内と大仏大正3年(1914年)10月の阿弥陀寺。会津の人々の長年の念願だった敷地内の墓地改修が完了したときのもの。左端には大仏が、右には鐘楼が写っている。モノクロ写真をディープラーニングにより色付け。

金属類回収令により供出される阿弥陀寺の大仏昭和19年(1944年)に金属類回収令により供出される阿弥陀寺の大仏。大仏にはたすきがかかっており「出征」していくようす。戦局が厳しくなっていくさなかの供出であった。

現在の阿弥陀寺境内にある大仏の台座現在の阿弥陀寺境内にある大仏の台座。露座(屋根のない所に座る)の大仏であったかつての姿が想像できる。

数々の困難を乗り越えて今に至る阿弥陀寺。
そんな阿弥陀寺の歴史を感じてみませんか?
御朱印について 阿弥陀寺では現在御朱印はありません。

しかし、会津東軍墓地の御朱印を阿弥陀寺向かいの、七日町観光案内所で承っています。
定休日などを公式サイトでご確認の上お越しください。


この記事でご紹介した資料一覧
・近江日野町志 巻上 日野町教育会編(1930年)
・蒲生忠知公伝 西園寺源透 著(1933年)
・会津文化財 4号 会津文化財調査研究会編(1984年)
・倉田氏家譜 倉田秀治編(1971年)
・新編会津風土記 会津藩(1803年-1809年)
・戦死之墓所麁絵図 伴百悦(1869年)


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こちらにも足を伸ばしてみませんか?

清水屋旅館跡

清水屋はかつて七日町通りにあった旅館です。建物は木造3階建てで、当時から格式の高い旅館でした。歴史の教科書で名前を見たことのある、あの有名人たちもここに宿泊しました。

七日町地蔵尊

かつてここには「吉祥院」という大きなお寺がありました。現在はその本堂は残っておらず、地蔵尊が残るのみ。目を閉じるとかつての勇壮な建物がそこに。

七日町通りの歴史

何度でも生き返る町並み。かつては街道沿いの重要拠点として・近代では産業の中心として賑わった町並み。現代のシャッター街を乗り越えた先にあったもの。

無料駐車場   七日町通りとは  


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