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阿弥陀寺



阿弥陀寺

おすすめポイント
阿弥陀寺は慶長8年(1603年)に開基されたお寺です。そして多くの歴史の舞台ともなってきたお寺でもあります。

現在の阿弥陀寺現在の阿弥陀寺。上の写真(大正3年 1914年)当時と同じアングルで撮影したもの。

寺の始まりと繁栄 良然と板倉修理の出会い 慶長8年(1603年)に阿弥陀寺を開基したのは、下野国真壁郡(現在の栃木県と茨城県の一部を含む)生まれの良然(廓蓮社 良然上人)です。
良然は、陸奥国安積郡(現在の郡山市や二本松市の一部を含む)にある善導寺に住職として住んでいました。しかし、良然は病気にかかってしまい会津若松の東山温泉に湯治に来ることになります。

当時、会津を支配していた蒲生秀行の家臣であった板倉修理は、方外の友である良然をそのまま会津に留めようとします。そのため秀行に土地を賜り阿弥陀寺の開基のために奔走しました。
蒲生家の家臣名簿とも言える「蒲生家分限帳」には板倉修理の名前も掲載されており、それを見ると「馬廻り9番 石高700石」という身分だったことが分かります。
会津藩士の中で500石以上の収入を得ていたのは家臣全体の約10%の割合だったことを考えると、板倉修理は上位の身分であり寺を開基するための力を持っていたと推測できます。
「コラム 板倉修理の氏名について」も参照
倉田為実の援助 板倉修理以外にも、阿弥陀寺の開基のため多くの人々が協力しています。
そのような協力者の一人として倉田為実(くらたためざね、後に剃髪し倉田道拓と名乗る)という人物がいました。倉田為実は、大町四つ角付近に屋敷を構えており豪商であるとともに検断(警察や検察)としての地位にありました。

元々倉田氏は、蒲生秀行の父である蒲生氏郷が会津に移封されたのに伴い同時期に日野(滋賀県日野町)から会津に入ったと言われています。
一方で「倉田氏家譜」(倉田秀治編 1971年)によれば、倉田為実が18歳の時、永禄5年(1562年)には会津に移住していたとされています。これは氏郷が会津に来る28年前のことでした。倉田氏が会津に移住した理由については分かっていませんが、為実が18歳の時に兄である与左衛門と共に黒川(現在の会津若松市神指町大字黒川付近)にやってきて、柳津町福満虚空蔵尊圓蔵寺に参拝したこと、その後与左衛門は伊達郡に定住したが、為実は会津に定住したとされる記録は残っています。
為実は猟銃製造を家業としていましたが、文禄元年(1592年)に行われた蒲生氏による城下町大変革に与力として参加し、その功によって大町四つ角付近に土地を賜り大町地区の町年寄(後の検断)となりました。
ですから、阿弥陀寺建設の時期にはすでに倉田氏の力は大きなものになっていたのです。

このように、倉田氏は力を持っており加えて熱心な浄土宗信者でもあったことから阿弥陀寺建設の援助を行うこととなります。そして「阿弥陀寺」という寺の名前も、倉田為実の故郷にあった阿弥陀寺と同じ名で命名したものと言われています。

倉田為実は29歳の時に、黒川の工人であった白石次郎の娘(当時19歳)と結婚しています。その為実の妻は慶長9年(1604年)2月25日に亡くなりました。
その時のことを為実の孫、横田俊益は「寺始めて成り亡妻を葬る」と為実について書き記しています。このことは慶長8年(1603年)または慶長9年(1604年)には寺が完成していたことの証拠となっています。

大町四つ角にある倉田氏の屋敷現在の大町四つ角付近にある倉田氏の屋敷。倉田氏と共に検断の役にあった簗田氏屋敷も描かれている。
阿弥陀寺の完成 このように大勢の人々の尽力の結果、阿弥陀寺の壮大な建物が完成します。
阿弥陀寺には、仏殿(仏像を安置し礼拝する建物)・衆寮(僧が読経したり説法を聞いたり喫茶などを行う建物)・方丈(僧の住居)・小院(本寺に付属する小寺院)などが美しく備わっていました。そして下野圓通寺(栃木県栃木市城内町2丁目34-57)に認められその末寺となっています。
良然は2尺7寸5分(約104cm)の阿弥陀仏を所持していたので、それを寺の本尊としました。

そして元和4年(1618年)には僧侶130人あまりが集まり、大法会(大規模な法会・仏法を説くため供養を行うための集まり)が行われています。また、4月から7月までの3ヶ月の間に夏安居(堂にこもって修行すること)が行われました。このように完成した阿弥陀寺には多くの人々が集まり隆盛を極めました。

その翌年、阿弥陀寺を開基した良然は、阿弥陀寺の西に見性寺(福島県会津若松市日新町16-36)を開き自らの隠居寺とします。その後、元和8年(1622年)4月10日に見性寺で亡くなりました。
「コラム 良然ゆかりの寺」も参照

良然の跡を継いだ二代目良仙は、さらに建物を拡張し寛永10年(1633年)頃には会津若松城下でも有数の規模を誇る寺となっていました。
しかし、四代目良頓時代、正保2年(1645年)1月29日夜半に出た火は大火災となり寺の建造物は全て失われてしまいました。唯一残ったのは本尊の阿弥陀仏だけだったのです。同じ年の夏に精舎が建立されましたが、以前のような壮観を見ることはできませんでした。
阿弥陀寺住職と倉田家の衝突 その後、阿弥陀寺住職が素益の時代になると、檀家や城下の他寺と頻繁に衝突する事態が生じました。阿弥陀寺建立に尽力した倉田家との衝突もその一つです。
その頃、倉田家は倉田為実の孫である横田俊益(倉田為実の娘である倉田徳と入婿である横田俊次の長男で、会津横田山内家の本姓である横田を与えられた)の代となっていました。横田俊益は儒学者である林復斎から教えを受けた儒学者で、時の会津藩主である保科正之に仕え藩教育の礎を築いた人物です。横田俊益は儒学者であったこともあり、さらに当時の時代背景として儒学者と僧侶の争いが全国的に見られた時代でもありました。

横田俊益は玉井雲庵を通し、阿弥陀寺住職素益に対して次のように伝えています。
「阿弥陀寺は我が先祖倉田為実が開いたので、祖父母や父母を同寺に葬い年々の供養を行ってきた。しかし私は幼い時から儒教を学び心をその儒道に託してきた。 私は正之公に仕えているが、公は儒道を好み、神道を尊び、葬祭は仏事を離れることを遺言された。自分も死んだなら儒礼をもって葬られれば満足である。今は僧侶たちは利己心があって人が死んだ後その子孫と争いを起こしている。したがって今後私の家で読経念仏を禁止する。この決定にもし異議があるなら先祖の墓を他に移し、以後一切の音信を絶つつもりである。」
このことに対して阿弥陀寺住職素益は意義を唱えませんでしたが、この出来事が後まで尾を引くことになりました。

横田俊益の姉は木村久哉に嫁いでいましたが、その俊益の姉は長い間病を患っていました。妻の死期が近づいたことを悟った夫の木村久哉は、阿弥陀寺は土地が低く湿潤であるため棺を葬るのは難しいと考え、会津藩の墓地である大窪山(福島県会津若松市門田町大字黒岩字大窪山913)に埋葬することにします。その際、素益に引導(死者を葬る前に法語などを説き浄土へ導くこと)してもらうように申し出ました。
しかし、素益は阿弥陀寺に葬る者以外は引導しないと断ります。
木村久哉はこれまでも寺外に僧侶が来て引導した例を引き合いに出し懇願しますが、なおも素益はそれを断りさらに今後は阿弥陀寺に足を踏み入れることさえ許さないと述べて拒絶しました。

これについていきさつを聞いた横田俊益も、「自分に向けての怒りを姉とその夫である木村久哉に向けるのならば、自分も阿弥陀寺の門をくぐらない」と述べ、天和2年(1682年)7月7日に服部玄沖を通して自分と親族は今後阿弥陀寺に参詣しない旨を告げさせました。
これにより、倉田家(横田家)と阿弥陀寺住職素益の対立は決定的なものとなったのです。

この出来事の後、元禄7年(1694年)2月22日に素益は会津若松城下の寺を相手に訴訟を起こします。しかしその訴訟に破れ藩によって追放されました。
同年6月になり、仙道小浜西念寺の僧が後任として阿弥陀寺に来るようになります。これにより横田俊益は8月11日に家族と共に阿弥陀寺を訪れ祖父母・父母の墓に詣でました。
8月18日には、横田俊益の長男である横田俊晴も阿弥陀寺に詣で、ついに倉田家(横田家)と阿弥陀寺の和解が実現することとなったのです。対立が始まってから実に13年目のことでした。
元禄9年(1696年)2月8日には、横田俊晴が阿弥陀寺住職を自宅に招いてもてなしています。その席には父である俊益も同席していました。
このように倉田家(横田家)と阿弥陀寺は和解しましたが、次の代の横田実政からは阿弥陀寺に葬られず別の場所へ埋葬されています。阿弥陀寺に戻ったのは倉田家(横田家)9代の廷実からのことでした。


このように様々な出来事があった阿弥陀寺でしたが、その勢いはしだいに衰えていくことになります。
幕末には、阿弥陀寺は荒れて復旧も困難なほどでありかつての隆盛を誇った阿弥陀寺は見る影もありませんでした。
御三階(後述)による仮本堂を経て、現在の本堂が建立されたのは、昭和50年(1975年)になってからのことだったのです。

これらの阿弥陀寺に関する歴史は、享和3年(1803年)から文化6年(1809年)にかけて編さんされた「新編会津風土記(あいづふどき)」にも、記録が残されています。
「会津風土記」は、会津藩主 保科正之の名により、寛文6年(1666年)に完成しましたが、それを補完する情報も含まれた新編として完成したのが「新編会津風土記」でした。
「新編会津風土記19巻 若松の5 下町」には阿弥陀寺についてこのように書かれています。

阿弥陀寺
こちらの町(七日町)より北小路町に通じる小路にあり、正覚山と称した。
現在の栃木県真壁の大沢円通寺末山 浄土宗である。
寺を開基した僧は良然といい真壁の生まれ。安積郡(現在の郡山市や二本松市の一部を含む)の善導寺に住んでいたが、病の治療のために会津に来て、数年仮住まいしていた。
蒲生秀行の家臣に板倉某(板倉修理)というものがいた。かつて良然と方外の友だったので、秀行に願い出て慶長8年(1603年)にこの寺を開いた。
その時、倉田某(倉田為実)が現在の滋賀県より来てこの地に家をかまえていたが、資財をだしてそれを助けた。
仏像を安置し礼拝する建物・僧のための宿舎・多目的な建物は大きく立派なもので全て備えられていた。
これにより園通寺の末山となった。
元和4年(1618年)、高僧130人あまりが集まって大法会がもうけられた。
4月から7月まで行事が行われ、今にまで伝わるような大きな催しとなった。
良然は後に見性寺を開いて隠居寺とした。
その後阿弥陀寺は火災で消失し、仏像を安置し礼拝する建物・僧のための宿舎は復旧されなかった。唯一阿弥陀の像のみ残り客殿に安置された。良然が守ったものだろうと言われている。

【新編会津風土記19巻 若松の5 下町】

新編会津風土記より阿弥陀寺阿彌陀寺 境内千四百三十四歩免除地
(阿弥陀寺 境内千四百三十四歩免除地)

此町より北小路町に通する小路にあり 正覺山と號す
(此町より北小路町に通する小路にあり 正覚山と号す)

下野國眞壁郡 大澤圓通寺末山 淨土宗なり
(下野国真壁郡 大沢円通寺末山 浄土宗なり)

開基の僧を良然と云い真壁郡の産にて 本州安積郡善導寺に住し 疾あるにより療治のため會津に來たり 數年寓居せり
(開基の僧を良然と云い真壁郡の産にて 本州安積郡善導寺に住し 疾あるにより療治のため会津に来たり 数年寓居せり)

蒲生秀行の家臣 板倉某と云う者 曾て良然と方外の知己なりし 故秀行に請て慶長八年に此地を開く
(蒲生秀行の家臣 板倉某と云う者 曽て良然と方外の知己なりし 故秀行に請て慶長八年に此地を開く)

其時倉田某近江國より來り 此鄕に家居せしが資財を出してこれを助く
(其時倉田某近江国より来り 此郷に家居せしが資財を出してこれを助く)

佛殿衆寮方丈小院巨麗にして皆備れり
(佛殿衆寮方丈小院巨麗にして皆備れり)

是に於いて圓通寺の末山となる
(是に於いて圓通寺の末山となる)

元和四年 龍象一百三十餘員を集て大法會を設く
(元和四年 龍象一百三十余員を集て大法会を設く)

四月より七月まで法門を修行す 今に至るまて相傳えて淨門の盛事とす
(四月より七月まで法門を修行す 今に至るまて相伝えて浄門の盛事とす)

良然後に見性寺を開いて隱居せり
(良然後に見性寺を開いて隠居せり)

其後當寺火災に燒亡し佛殿衆寮舊の如くならず 唯彌陀の靈像のみ傳て客殿に安す 良然護持の物と云
(其後当寺火災に焼亡し佛殿衆寮旧の如くならず 唯弥陀の霊像のみ伝て客殿に安す 良然護持の物と云)


戊辰戦争と阿弥陀寺 戦死者遺体の改葬 時代が流れ、幕末期には阿弥陀寺も不穏な空気に包まれていくことになります。
会津藩も属した旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争では、戦死者の遺体が阿弥陀寺に改葬されるという出来事がありました。

戊辰戦争が終結した明治元年(1868年)9月22日の鶴ヶ城開城後、同年10月1日には新政府による民政局が設置されています。
その当時、会津藩を含む東軍(旧幕府軍)戦死者・西軍(新政府軍)戦死者の遺体を埋葬することが急務となっていました。倉田家と並ぶ検断であった簗田家に残る「簗田家御用留記」によると、民政局は10月4日に賤民(当時一般的な身分制度の中で、士農工商の下の穢多とされていた人々)を呼び出し、遺体を埋葬することを命じました。この埋葬作業は城中から始まり、城郭内外の遺体を順に処置して入念に取り扱うことを指示しています。

簗田家に伝わる文書である「公用簿籍」にも、民政局が戦死者の遺体を片付けるよう穢多肝煎(きもいり、その役目の人々をまとめる世話役)に指示した発した命令が残されています。

一、穢多肝煎左与之助呼出、 御城死人掃除共申聞候事。但左与助左之廉々伺出候に付、村田己三郎様江伺候様、左之通御差図。
一、穢多人数御用相勤候者、弐百人程、内百人程帰宅、右之内、先ツ以三拾人差出候様、尤城中通行ニ付而者、検断ニ而板鑑札拵、民政局へ御渡被下度旨、願出候様、其下タ是迄之通、城中養ひ被取旨、被御聞、旦御城中死人取片付候はは、郭内郭外共死人取片付候様、 右埋候ヶ所之儀者、最寄之寺へ検断より申遣候様、被仰聞候ニ付、何連差支候筋、有之候はは、検断へ穢多肝煎ゟ(より 合略仮名)申出候様共々申聞候事。
但鑑札受取として、明三日七ツ時ニ罷出候様申聞候。 城中死人取片付之儀ハ、明後四日ニ罷出候様申聞候事。
十月 民政局

【簗田家文書 公用簿籍】

さらに公用簿籍には、戦後の遺体の片付けやその他の掃除を行う者は申し出るようにという命令も残されています。

今度戦争以来、仆屍城内市中処々に有之、見る者難忍候間、如何にも早々仕様方行届度、就而者、埋方入念可致置追々ニ御仁恤之御沙汰も可仰付之御趣意ニ候条、得与市街掃除付置候者共見附次第、其筋江可申出段、不洩様可申付置候事。
辰十月

【簗田家文書 公用簿籍】

新政府軍(西軍)戦死者たちの遺体は、融通寺(福島県会津若松市大町2丁目7-45)に接して設けられた西軍墓地に葬られました。鶴ヶ城開城の翌月 明治元年(1868年)10月には大垣藩(岐阜県大垣市)が「大垣戦士二十人墓」を建立、同年秋には土佐藩(高知県高知市)が「供養塔四基」、同年11月には薩摩藩(鹿児島県)が「仙城凱旋灯籠碑」を建て、同年12月には肥州藩(熊本県)が墓地を築き、年内には新政府軍側の墓地については体裁が整えられていきました。

しかし、埋葬が行われていた時期に、会津藩に対するこれまでの不満が爆発した会津世直し一揆(ヤーヤー一揆)が旧会津藩領地の各地で頻発するようになりました。さらに降雪の時期とも重なったため、埋葬作業が間に合わなかった戊辰戦争の戦死者の遺体は結果的に野ざらしにされることになってしまいました。

12月末には一つの事件が起こります。
戊辰戦争終結前のこと、飯盛山のふもとにある滝沢村(福島県会津若松市一箕町滝沢)の吉田伊惣次の妻である左喜は、飯盛山で烏が鳴くのを不審に思い様子を見に行ったところ自害した白虎隊士を発見しました。若者たちの死を不憫に思った左喜は人目を忍んで数人の遺体を埋葬します。しかし後にこの行動は西軍黒羽藩兵(栃木県大田原市黒羽町)に知られることとなり、左喜の代わりに吉田伊惣次は牢獄に入れられました。しかし、それが会津藩の命令で行ったわけではなく白虎隊の少年たちを憐れむ心からそうしたことが明らかになると釈放されたのです。その釈放には、吉田伊惣次宅で謹慎していた町野主水(会津藩士、最後の会津武士と言われた)の口添えがあったと言われています。

身分を自ら落として改葬を行う藩士たち 戦死者の遺体を扱っていたのは賤民とされた人々でしたが、当時賤民とされていた人々と武士階級の人々の間には大きな隔たりがありました。これまで虐げられてきた賤民とされた人々によって行われる埋葬は、犯罪人の遺体と同じく石や瓦を投げ捨てるように会津藩士の遺体を扱っていたと言われています。
それを見かねた、賤民取締の役職であった500石会津藩士の伴百悦(ばんひゃくえつ 1827年 - 1870年)は、同僚の武田源蔵と共に、自ら賤民に身分を落とし埋葬作業を指揮しました。
伴百悦は戊辰戦争では萱野隊副将として新潟方面を転戦しました。その後、戦争が終わるまで鶴ヶ城を死守し、戦いが終わった後は会津藩戦死者の埋葬のために奮闘した人物です。
また、若松の豪商であった星定右衛門は資金として1,000両を提供しています。
阿弥陀寺への改葬 遺体の改葬が行われるようになったとはいえ、新政府軍が遺体の改葬先として指定したのは会津藩の馬や犯罪人が埋葬されてきた不浄と言われていた土地である会津若松市内の小田山付近・または薬師堂川原 / 黒川刑場(福島県会津若松市橋本涙橋付近)の罪人塚でした。これに会津藩士たちは猛反発します。何度も抗議した結果、改めて改葬先として指定された場所の一つが当時荒れ果てていた阿弥陀寺だったのです。

阿弥陀寺では明治2年(1969年)の2月24日に改葬が始まりました。近くの寺に仮埋葬されていた遺体についても、阿弥陀寺に改葬が行われています。
明治2年(1869年)3月8日・9日には、新政府軍の命令によって大施餓鬼会(だいせがきえ・無縁仏に対しての法会)が行われています。同じ年の7月5日から7日までは、新政府軍の許可を得て若松市内や近隣の村々の各宗派の僧侶が集まり法要を営みました。
8月23日には阿弥陀寺による供養も行われています。このときは新政府軍が会津若松城下に侵入してからちょうど1年目に当たるため、旧会津藩士に広く案内が出されました。
間瀬ミツ(会津藩士、間瀬新平衛の次女。36歳で経験した戊辰戦争では鶴ヶ城に籠城。その後、籠城・斗南移住・会津帰国までを女性の目から記録した戊辰後雑記を記録した。)が記した「戊辰後雑記」にはその時の事についてこのような記述があります。
「明治2年8月23日戦死者の一周忌につき3日の間御供事があった。阿弥陀寺・長命寺で大施餓鬼があった。女子供また家内揃って礼拝に出、立派な仮屋が立てられ、法会の後には赤飯が炊かれた。」

このような改葬において阿弥陀寺境内には1.5メートル四方の大きな穴が掘られ、城下から集められた遺体が埋葬されました。それらの墓には壇が建てられ、その周りには木の柵、そして上には松が植えられました。
その時の様子は「戦死之墓所麁絵図」に描かれています。

阿弥陀寺に築かれた戦死の壇阿弥陀寺
戦死の壇東西四間余
南北拾式間、高サ四尺
七月五日六日七日
八宗大施餓鬼
供養致候事


阿弥陀寺に築かれた壇阿弥陀寺
天朝より諸寺院中の土ヲ集、壇ヲ
築、二月中如レ此出来ニ及。
大垣(東西三間 南北四間弐尺)
壇 (高サ七尺 弐間一尺五寸四方)
遙拝所、三月八日九日官軍所ヨリ
大施餓鬼致候事


この戦死之墓所麁絵図を残したのは、埋葬を指揮した伴百悦です。

伴百悦は改葬方として会津藩士の埋葬を監督しています。
伴百悦は阿弥陀寺の他にも約16ヶ所で埋葬の指示をし、その時の記録として「戦死之墓所麁絵図」を残しました。

このように阿弥陀寺に会津藩士の遺体を葬ることはできましたが、墓標を建てることは許されませんでした。
明治6年(1873年)になり墓標を建てることが許されましたが、大庭恭平(会津藩士 1830年 - 1902年)による「殉難之霊」という文字に対し、民生局監察方兼断獄の地位にあり悪名高かった久保村文四郎は「殉難」という文字を使うことすら許しませんでした。その結果、墓標は「弔死標」と書き改められました。
伴百悦はこの扱いに怒り、久保村文四郎を束松峠(福島県会津坂下町)で斬殺、越後方面へ逃走しましたが大安寺村(新潟県新潟市秋葉区大安寺)で命を落としました。
「コラム 伴百悦の墓 画像ギャラリー」も参照

新選組 斎藤一と阿弥陀寺 戊辰戦争と阿弥陀寺に関わりのある人物として、新選組三番隊隊長であった斎藤一がいます。

斎藤一は会津と共に戊辰戦争も戦いました。
会津若松城下に西軍が迫り敗色が濃厚になった頃になると、土方歳三は仙台へと転戦し戦いを立て直すことを決定しました。
しかしその当時、土方歳三の負傷により臨時の局長となっていた斎藤一は、文久3年(1863年)以来新選組を庇護してくれた会津藩を見捨てることはできないと主張。土方の片腕として従ってきた斎藤一は会津に残ることを決意します。
斎藤一と共に残った新選組隊士は十数人いたといわれていますが、その後の如来堂の戦いなどで命を落としています。

神出鬼没な戦いをしていた斎藤一でしたが、奮闘むなしく鶴ヶ城が落城し会津藩が降伏すると会津藩士は塩川と猪苗代で謹慎することになりました。斎藤一は塩川に謹慎していましたが、他の会津藩士と共に越後高田藩に預けられ、一瀬傳八と名乗っています。
その後会津藩が斗南に移封されると共に、斎藤一も斗南に移転しました。その頃会津藩の藤田家の養子となり藤田五郎と改名しています。そして会津藩大目付 高木小十郎の娘である高木時尾と結婚しました。

斎藤一の妻である高木時尾は新島八重とも親しく、戊辰戦争時には時尾が八重の髪を整えたとの逸話も残っています。

高木時尾と新島八重 鶴ヶ城城下の家臣屋敷が分かる「戊辰若松城下朙細圖」。
高木時尾の屋敷には、弟の高木盛之輔(せいのすけ)の名前が記されている。
すぐ裏手に新島八重の屋敷があり、兄の山本覚馬の名前が記されている。高木時尾と新島八重は親しい交流があった。


その後、警視庁に入庁し西南戦争で活躍・東京教育博物館などに務めましたが、大正4年(1915年)9月28日に胃潰瘍のために死去。死後は会津に葬ってほしいとの遺言通り、阿弥陀寺にある藤田家の墓で眠っています。

秋の木漏れ日の中佇む藤田家 斎藤一の墓 秋の木漏れ日の中佇む藤田家の墓。遺言通りこの墓に斎藤一は葬られている。

斎藤一の墓前の案内板 墓前にある案内板。

新選組隊士 斎藤一(藤田五郎)の墓

斎藤一は、1844年(弘化元年) 御家人の父、山口祐助・母マスとの間に生まれた。初名を山口一、のち斎藤一に改めた。
1863年(文久三年)壬生浪士組のちの新選組に参加し、副長助勤、三番隊隊長として活躍、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で剣術師範も務めた。池田屋事件にも参戦。
その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新選組から分離した時伊東に同調して離脱、しかし局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新選組に復帰し山口二郎と改名。
鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となり、会津戊辰戦争を戦った。
しかし西軍が城下に迫った時、「会津候(松平容保)あっての新選組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と会津に残り仙台へ向かった土方と別れた。
会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉。明治三年斗南へ移る際藤田五郎と改名。その後上京し警視庁に入り、容保の媒的により会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚。警視庁においては西南戦争へ出陣するなど活躍。
その後東京教育博物館等へ奉職し、1915年(大正四年)七二歳で逝去。後半生を会津人として生きた本人の希望によりここ阿弥陀寺に眠っている。

The grave of a great member of Shinsen-Gumi, Hajime Saito GoroFujita)
Hajime Saitou Was born in 1844. He joined the Shinsen-gumi in 1863. He was the captain or 3rd troop. He also took part in the Ikedaya riot, which was a turning point in their career. After theend of the shogunate, the Boshin Civil War started. The Aizu clan fought against the Choshu and the Satsuma clans. The Aizu area was one of the war fronts then. During the Boshin Civil war, the headof the Shinsen-gumi, Isami Kondou, passed away and the vice-head, Toshizo Hijikata, was injured.Hajime Satio became the next head of the Shinsen-gumi and took commandof the army protectingthe Aizu area. Following the formation of the Meiji Government, he changed his name to Goro Fujita and joined the police troops. In 1873, Saito married Tokio Takagi, who was the daughter of an important Aizu official. He passed away in 1915, and now he sleeps here, in Amida-ji Temple, by his request.


御三階の移築 戊辰戦争後、犠牲者の埋葬が始まった2年後の明治4年(1971年)、鶴ヶ城にあった御三階がこの地に移設されています。火災によって消失していたこれまでの本堂に変わり、移設された御三階が埋葬された人々を弔うため仮の本堂とされました。
この御三階は外側から見ると3層の建物ですが、内部は4層になっており時には密談にも使用されていたと伝わっています。
御三階は本来は鶴ヶ城の櫓であったため、寺の仮本堂として使用するために鶴ヶ城本丸にあった大書院の玄関を継ぎ足し、入り口を整えました。そのため鶴ヶ城本丸跡に残っている御三階の石垣と寸法が合っていないと言われています。

阿弥陀寺横に建つ御三階阿弥陀寺境内に建つ御三階。寺の屋根の高さと比べると御三階の大きさが分かる。

阿弥陀寺境内にある御三階についての案内板阿弥陀寺境内ある御三階についての案内板。

鶴ヶ城の遺構
御三階 ごさんがい
江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城本丸にありましたが、明治3年にこの地に移されました。外観は3階ですが、内部は4層になっており、2階と3階の間に天井の低い部屋があります。
3階に上る梯子は用のない者が上がれないように、上から引き上げる仕組みになっており、当時は密議所に使用されていたと思われます。
また、本丸北東の正方形の石垣の上に建っていたところから、物見や展望台の役目を果たしていました。
戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が消失したために、長く本堂として使用されてきました。玄関の唐破風は城内本丸御殿の玄関の一部を配したものです。鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物です。
【参考文献】
「会津大事典」(会津大事典編纂会発行・国書刊行会刊)
「会津歴史年表(会津史学会発行・歴史春秋社刊)
七日町町並み周辺整備事業 (財)東日本鉄道文化財団・七日町通りまちなみ協議会


案内板で紹介されている、御三階 玄関の唐破風案内板で紹介されている、御三階 玄関の唐破風

裏手から見上げる 阿弥陀寺境内 御三階裏手から見上げる 阿弥陀寺境内 御三階。外側から見ると3階建てに見える。

 阿弥陀寺境内 御三階横に佇む黒河内伝五郎(黒河内兼規)の墓 阿弥陀寺境内 御三階横に佇む黒河内伝五郎(黒河内兼規)の墓。

会津藩最強の武芸者 黒河内伝五郎の墓
幕末会津藩の武芸家で、兼規または義信ともいう。家芸の居合術だけでなく、神夢想一刀流剣術、宝蔵院流高田派の槍術、その他薙刀、手裏剣、鎖鎌など武芸百般を極め、藩校日新館で武芸指南役を務めていた。
長州・萩に招かれたこともあり嘉永五年(1852)に吉田松陰が会津を訪れたとき、ひそかに日新館を見学させた。
会津藩最強の剣客といわれ、晩年は失明したが、座頭市を彷彿させるように武芸の技は衰えることがなかったという。会津戊辰戦争で長男義次は戦死、次男義兼は負傷。西軍が城下に攻め入った慶応四年(1868)八月二十三日、伝五郎は次男を介錯した後、自決した。六十五歳だった。
古武士を思わせるような典型的な会津人で、平成二十五年NHK大河ドラマ「八重の桜」にも登場している。
■墓碑中央に「進義院剣光尽忠居士」と刻まれ、右が長男、左が二男の法名である。
左隣の墓碑は母か夫人のものと思われる。


阿弥陀寺に移築される前に御三階が建っていた鶴ヶ城にも、御三階についての案内板が建てられています。
鶴ヶ城内御三階跡の案内板鶴ヶ城(会津若松城)内、御三階跡に立つ案内板。

鶴ヶ城内御三階跡鶴ヶ城内の御三階跡。土台や建物のおおよその面積が分かる。

鶴ヶ城内御三階跡と天守閣御三階は鶴ヶ城本丸内に位置していた。手前には御三階跡・正面には天守閣・左手には茶室麟閣がある。

阿弥陀寺と大仏 時代が明治に入ると、日本各地で廃仏毀釈(明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊運動)の風が吹き荒れました。
この会津にも、明和4年(1767年)9月に早山掃部介伴次が鋳造したもので、飯盛山の旧正宗寺(現さざえ堂 会津若松市一箕町八幡滝沢155)に唐金(銅と錫の合金・青銅)でつくられた高さ3.6メートルの大仏(毘盧遮那仏 びるしゃなぶつ 大乗仏教の仏像)がありました。
新編会津風土記巻之二十六 宗像神社には「大仏は御手洗の東、一段高き所にあり、高さ五尺計りの石壇を築き、銅像の釈迦を安ず。長九尺、蓮花座の上に露座す。蓮花座は銅にて高三尺四寸、明和四年に鋳る。」と記録されています。
しかし廃仏毀釈によって破壊されかけたため、その大仏は阿弥陀寺に移されました。

平石弁蔵 著 「会津戊辰戦争増補白虎隊娘子軍高齢者之健闘 改訂増補第3版」(昭和12年)には、戊辰戦争時の阿弥陀寺大仏についてこのようなエピソードが記されています。

七日町阿弥陀寺にある盧遮那仏は、飯盛山 仁王門前にあったものであるが、西軍の兵が乱暴にも一つ残らずことごとくこれを分解して荷造りをして居る所へ、西軍の将校が来て、
「いかがいたす。」
「ハイこれは青銅ですから横浜の外人に高値で売るのです。」
「その方共は神仏にまで手をつけるとはけしからぬ奴ぢゃ、無礼をするとそのままにはおかんぞ。」
と戒められてそのままになっていたのを、七日町鍋吹業 丸角の主人谷彦左衛門が安く買受け、手・胴 ・蓮座など離れ離れのまま、二年程道端の畑地にさらし置いていたが、やがて鍋にふこうとしたが、二・三日前より、毎晩深夜になると大仏がうなり出す騒ぎに、町内の者大いに驚き至急寄合して相談の結果もったいないと、これを譲り受け不手際ながらこれを継ぎ合わしたのが今の大仏である。
大仏さえ非道な目にあったのだから、普通人民が難儀したのは当然である。 大仏は明和四丁亥歳九月今より百六十年前に出来て飯盛山正宗寺に安置したものである。

【平石弁蔵 著 「会津戊辰戦争増補白虎隊娘子軍高齢者之健闘 改訂増補第3版」(昭和12年)】

このようなエピソードもありましたがその後大仏は、昭和19年(1944年)に第二次世界大戦中の金属不足の時期に供出されました。そして、現在はその台座が残るのみとなっています。

阿弥陀寺御三階からのの大仏阿弥陀寺の大仏と七日町通り。明治初期に御三階から撮影されたものと思われる。当時の七日町通りはほとんどがわらぶきの屋根であり、当時の生活が伝わる。
ディープラーニングによる着色


阿弥陀寺境内と大仏阿弥陀寺境内。明治末期に撮影されたものと思われる。右端には大仏が写っている。
ディープラーニングによる着色


阿弥陀寺の大仏 背面阿弥陀寺境内の大仏。背面からみた様子がわかる。

阿弥陀寺のガラス写真阿弥陀寺のガラス写真。フィルム写真が一般的になる以前に、ガラス乾板(感光する写真乳剤をガラス乾板に塗ったもの)を用いて撮影されたもの。手前が現在の七日町通り。当時は砂利道であったことが分かる。
会津若松市立会津図書館蔵 会津若松市デジタルアーカイブ


阿弥陀寺山車祭り明治32年(1899年)の会津若松市市制施行・または明治41年(1908年)の歩兵第65連隊常駐の記念行事、どちらかの時期に撮影されたもの。祝賀行事の際に阿弥陀寺から七日町の山車太鼓台が出発するところ。左手の大仏前の戊辰戦争戦没者の墓は改修前のもの。墓が改修されたのは大正3年(1914年)であった(次の写真も参照)。

阿弥陀寺境内と大仏大正3年(1914年)10月の阿弥陀寺。会津の人々の長年の念願だった敷地内の墓地改修が完了したときのもの。左端には大仏が、右には鐘楼が写っている。
ディープラーニングによる着色とノイズ補正


昭和8年に発行された観光案内に掲載された阿弥陀寺大仏 昭和8年(1933年)に会津若松市役所によって発行された観光案内から。
市内の名所がピックアップされており、阿弥陀寺の写真には大仏も写っている。裏面は青木志満六が描く鳥瞰図が掲載され、阿弥陀寺は「戊辰役戦死者墓アミダ寺」と表記されている。
大正3年(1914年)10月の写真と比べると、鐘楼の奥に建物が作られている。
当時はまだ七日町駅が設置されていなかった。青木志満六と七日町駅について詳しくは七日町駅も参照。


金属類回収令により供出される阿弥陀寺の大仏昭和19年(1944年)に金属類回収令により供出される阿弥陀寺の大仏。大仏にはたすきがかかっており「出征」していくようす。戦局が厳しくなっていくさなかの供出であった。
ディープラーニングによる着色


供出される際の記念式典のようす阿弥陀寺の大仏が供出される際に行われた式典の様子。
ディープラーニングによる着色


現在の阿弥陀寺境内にある大仏の台座現在の阿弥陀寺境内にある大仏の台座。露座(屋根のない所に座る)の大仏であったかつての姿が想像できる。

追悼施設の建設と変遷 阿弥陀寺への埋葬とともに、犠牲者を追悼する施設についても建設が行われてきました。伴百悦が改葬を行った際には、ささやかな遥拝所が設けられたことが記録されています。
第一次拝霊殿の建設 明治7年(1874年)または明治8年(1875年)頃には、松田一芥(旧会津藩士、北海道札幌ではじめての牛乳屋を開いた)の手によって拝霊殿が建設されました。この施設は遥拝所を屋内で利用できるよう恒久的な施設としたものです。
大正2年(1913年)9月には戊辰戦争戦死者たちを追悼するために「会津弔霊義会」(初代会長 町野主水)が創設されました。
同時期、拝霊殿の建物が老朽化してきたため大正7年(1918年)4月15日に、会津弔霊義会により新たな拝霊殿を阿弥陀寺本堂跡に建設することが取り決められます。この建設計画が進められていきましたが、折悪しく第一次世界大戦とそれに伴う世界的な不況により工事は一時中断せざるをえませんでした。
工事が中断している間にも拝霊殿の老朽化が進んでいたため、大正13年(1924年)11月に改めて工事続行が決定され、さらに寄付金の募集も再開されています。難しい状況の中の建設でしたが、大正14年(1925年)12月に建物は完成し、正式名称を「戊辰殉難拝霊殿」とすることが定められました。建物の扁額は会津松平家の12代目松平保男による揮毫で、縦3尺(約90cm) 横1尺5寸(約35cm)の欅板が用いられました。

阿弥陀寺 拝霊殿 旧拝霊殿の平面図・扁額・拝霊殿の写真・当時の阿弥陀寺境内の様子。


第二次拝霊殿の建設 大正14年の拝霊殿建設の際、会津弔霊義会と阿弥陀寺の間には「阿弥陀寺本堂を再建する場合は拝霊殿を移築する」という取り決めがなされていました。
その後、阿弥陀寺本堂が再建されることになりましたが、拝霊殿を移築するのではなく本堂の中に納めるという条件で決定がなされました。昭和49年(1974年)1月12日のことです。

このような第一次拝霊殿や第二次拝霊殿の建設の際には、大勢の人々や団体から心からの賛同とともに寄付がよせられました。
これらは戊辰戦争において朝敵とされ、戦後も追い打ちをかけるような仕打ちに耐えてきた先人たちを敬う気持ちで寄付が行われたものです。

募金活動の発足:昭和49年6月20日
募金活動の終了:昭和50年12月31日
募金総額:2,779万2,500円
内訳:
会津地区 2,099万2,000円
東京地区 536万7,000円
斗南地区 93万8,500円
その他地区 49万5,000円

この時に新築された本堂と拝霊殿が現在でも用いられています。

阿弥陀寺 現在の本堂拝霊殿の平面図 現在の阿弥陀寺平面図と建物の様子。


現在も残る重要な石碑と建造物 阿弥陀寺には現在も貴重な石碑が残されています。これらの石碑には先人たちが後世に残そうとした思いが刻まれています。

現在残る重要な石碑と建造物 現在も残る重要な石碑と建造物の主なもの

1. 墳墓
2. 会津藩相萱野長修遙拝碑
3. 報国尽忠碑
4. 戦死墓
5. 明和5年奉納の燈籠
6. 石の手洗鉢
7. 復禄記念碑
8. 戊辰戦役五十年祭記念碑
9. 明治戊辰戦争殉難者墓の石柱
10. 観音像台座跡と石の思惟仏
11. 梵鐘と鐘楼(太平洋戦争時にも供出を免除された鐘)
12. 大仏の土台


阿弥陀寺 墳墓 1. 墳墓

昭和21年(1946年) 現在の墳墓は、東西7間(約12.7m)・南北8間半(約15.5m)・高さ4尺5寸(約1.3m)の方形で、奥にはさらに東西3間半(約6.4m)・南北2間(約3.6m)同じ高さのものが南側に突出した形になっています。
周囲は石が積み重ねられており、その上部は石の玉垣(境界の柵)となっています。南側(七日町通り側)には7段の石段があり、2枚の鉄の扉が左右に開くように出来ており、扉には金色の葵の紋章が浮き彫りにされています。
このように少し高くなっている部分に幾つかの碑が建てられています。
まず、正面には会津藩家老であった「萱野長修遙拝碑」が建ち、その前面に2基の大きな碑があります。左側の碑には「報国尽忠碑」・右側の碑には「戦死墓」と記されています。


阿弥陀寺 会津藩相萱野長修遙拝碑 2. 会津藩相萱野長修遙拝碑

3段の台座の上に建っているこの碑は萱野長修が亡くなった23回忌に、旧会津藩の有志がお金を出し合って建立したものです。
正面にある右から左の横書きの「会津藩相」の文字は、松平容保(会津藩9代藩主)の筆によるもの、その下にある縦書きの「萱野長修遙拝碑」の文字は松平容大(会津松平家11代で陸奥斗南藩主・知事)の筆によるもの、「旧会津藩相萱野君碑銘」は、南摩綱紀の撰(選ぶこと)となっています。

旧会津藩相萱野君碑銘(書き下し文)
明治戊辰の乱には天地否塞し日月冥して人々方向に迷う。 此時に当り君、藩政を執り三軍を督し、粉骨斎身して臣職を尽す。乱平ぎて朝廷王師に謀抗する者を索む。君同僚田中玄清、神保利孝と之に当る。而して玄清、利孝は嚮きに既に戦死せり。君乃ち罪を一身に受け、有馬邸に幽せられ、越えて明年五月十四日死を賜う。是に於て主家再造し、臣僚皆罪を 免ぜらる。鳴呼、君の忠義烈は凛乎として霜粛、炳として日、明かなり。後二十四年君の二十三回の忌辰に丁り旧藩の有志者斉しく醸金して、碑を若松七日坊阿弥陀寺に建てんと謀る。招魂祭碑面の篆額は旧藩主松平容保公、姓名以下の七字は容大公の書く所なり。而して碑辞あらず、之を余に徴む。余乃ち其顛末を略叙す。君、諱は長修、権兵衛と称す。萱野氏は世々会津の藩相たり。遂に之が銘を係けて曰く入っては相、出でては将。東走西奔、一死国に報ゆ。旧藩を再造し、頸草疾風、松柏歳寒く、萬古滅せず。義謄忠肝、此の貞石を建てて、彼の幽魂を招く。

明治二十九年十月
高等師範 黌教授 正六位勲六等 南摩綱紀 撰


阿弥陀寺 報国尽忠碑 3. 報国尽忠碑

会津藩相萱野長修遙拝碑の前方には、左右に2つの碑が建てられています。
左側にあるのは「報国尽忠碑」と記されており、明治10年(1877年)西南戦争で命を落とした佐川官兵衛以下70名の名前が刻まれています。
碑の正面には横書で「報国尽忠」とあり、その下に次の文が刻まれています。

報国尽忠碑(書き下し文)
鹿児島の役、激戦命を致せしは佐川官兵衛以下六十余名と為す。皆嘗って戊辰の国難に遭いし者なり。彼の蒼降ることを知る無く、此凶虐歎ずるに勝うべけんや。同志協議して石を建てて吊祭の意を表す。従五位松平容保之が為めに篆額す。銘に曰く
人誰か死無からん。節を完うするを忠と為す。碑相望み流芳窮り無し。

明治十一年十月小笠原勝修撰

碑の反対面には殉難者の氏名が刻まれています。碑の本文には六十余名とされていますがそこには71名の名があり、それは後になって追加されて増えたものとなっています。

佐川官兵衛 新藤重光 笠原忠知 永井房之助 大村主計
内村直義 篠沢虎之助 橋爪幸昌 赤城作太郎 樋口巌吾
春日重威 荒川武 稲村茂 高木弘三 吉川七郎
小川隼次郎 野口勇治 小金丸相 高木新六 宮下外三郎
赤塚武盛 根津金次 酒井政次郎 山口左五郎 猪狩八次郎
尾崎藤次郎 吉岡忠太 石山綱衛 山室五郎 三宅寅次郎
雪下熊之助 小平又作 窪田茂太 渋川勝三郎 堀内留四郎
樋口高吾 黒河内友次郎 佐藤佐久次郎 二瓶幸太郎 松坂平次郎
善波明倫 赤羽真忠 栗城滝三郎 杉原権之助 五十嵐定松
下平次孝 榆井八五郎 山口亀四郎 和田祖秀 井上重吉
高木千代 富田調男 小川勝次郎 常木広順 山浦豊太郎
田原重文 中沢恆三 小沢保太 名越晴直 加藤忠平
天川直世 相馬郡吾 小松貞四郎 神田豊治 石井留吉
日野正三郎 橋本猪之太 佐原一郎 宇月平作 涌井豊之助
斎藤源吾

碑の台座には「石工貝瀬新太郎 川島市五郎」と記されています。また銘に「雙碑相望」とあるのは、この碑と相対して右側に同じ大きさの碑があることを指しており、それには「戦死墓」の三大字が正面に書かれています。


阿弥陀寺 戦死墓 4. 戦死墓

会津藩相萱野長修遙拝碑の前方、左側の報国尽忠碑に対して右側には「戦死墓」と刻まれた碑が建っています。
裏面には「八田宗吉建之」の6文字が記されています。


阿弥陀寺 灯籠 5. 明和5年奉納の灯籠

墳墓前には高さ1間半(1.7m)の左右一対の灯籠があります。その灯籠には「明治五年(一七六八) 戊子三月吉日」と記されています。
右側の灯籠は明治元年に鶴ヶ城から移されました。左側の灯籠は戊辰50年祭に磐見町にあった山内菊次郎の屋敷(明治14年10月5日~6日に有栖川宮熾仁親王が若松を巡視された際に宿泊された)より移されたものと言われています。


石の手洗鉢 6. 石の手洗鉢

灯籠の間には石の香炉とそれを挟んだ花立があり、大きな石の手洗鉢が置かれています。 手洗鉢には、「大正十五年一月、七日町乙卯青年会奉納」と刻まれています。


復禄記念碑 7. 復禄記念碑

向かって左側にある仙台石の復禄記念碑は、新政府からの公債金を勝ち取るまでの苦労が記されています。

明治2年(1869年)11月に松平容大は斗南3万石に移封され、それと共に会津藩家臣全てが容大に引き渡されることとなりました。
しかし、これまでの会津28万石から3万石へ減らされたため、家臣たちに十分な俸禄を支給することができなくなったのです。
そこで、旧会津藩は新政府に対して経費67万268両の拝借を願い出ましたが、実際に新政府から支給されたのは17万両と米1,200石のみでした。
やむを得ず旧会津藩はその費用の範囲内で移住することとなり、斗南に移ったのは7,300名あまりでした。その他の藩士たちはそれぞれの職を選び自活の道を選んでいったのです。

明治30年(1897年)になると家禄賞典禄処分法が制定され、全国の士族に対して俸禄相当の公債が下附されることとなりました。
しかし大蔵大臣 松方正義は、旧斗南藩士は旧藩制時代に俸禄を受けていた証拠がないとして、旧斗南藩士(旧会津藩士)は公債を受け取ることができなかったのです。
それを不服として藩士たちは、明治42年(1909年)に行政訴訟法に基づき大蔵大臣を相手取り訴訟を起こします。9年間の審理を経て大正6年(1917年)11月についに勝訴し、1年につき7石2斗・13年分の米を当時の相場に換算した額の公債を手にすることができたのでした。その際、公債を受け取ることができたのは以下の人々です。

青森県三戸郡八戸町大字十一番戸 中村健隆 ほか2,540名
福島県大沼郡本郷町 高橋大吉 ほか95名
北会津郡大字上荒井新田 中村源十郎 ほか61名
若松市当麻町 須田垣千代 ほか63名

とはいえ、斗南藩に移住したことを証明する原簿に「無縁」の貼紙のある900名余りは、公債を受け取ることができませんでした。
そこで再び大蔵大臣を相手に、この無縁の貼紙のある人々も斗南に移住した事実があるため他の人と同じように公債を受け取る権利があるとして、裁判を起こします。交渉の結果、大正8年(1919年)3月15日にその権利を勝ち取ることができたのです。
それでも、斗南に移った後に生活苦のため農業や商業に転職した人々・斗南からさらに他の土地に移住した人々・藩庁官吏として東京や若松支庁に転勤していた人々・藩の命令により他県に出張または東京遊学した人々は、これらの権利の恩恵を受けることはできませんでした。

このような敗戦した藩としての苦労が復禄記念碑に記されています。刻まれているのは以下の文面です。

復禄記念碑(現代文)
明治戊辰、国内大いに乱れて東西交戦した。東軍(旧幕府連合軍)は破れわが会津藩は領地を没収され、次いで翌年斗南藩を賜った。
やがて朝廷藩制は廃止され、明治9年政府は家禄公債を諸藩士に給付したが、わが藩のみ与えられなかった。これにおいて同志たちはこもごも起って待遇の均等を政府に要請したが省みられることはなく、わずかに少額の金銭が給付されただけであった。
いわゆる授産金がそれである。後に国会が開設され、諸士たちは毎年陳情を続けた。30年に家禄賞典禄処分法が成立した。人々は署名して大蔵大臣に請願したが、またこれも聞き届けられることはなかった。
諸士たちは屈することなく遊説にますます力をいれた。42年法律第21号が発布され、はじめに行政訴訟を起し、争うこと9年間、正義は法廷を動かし、裁判官はついに我が勝訴とした。
実に大正6年11月のことであった。それにもかかわらずそれを与えられることがない人々も少なくなかった。人々は結束して貴衆両院に請願した。
8年3月法律第34号の発布があった。これによって各々権利を受ける範囲が広がった。しかし斗南藩士の禄は少なかったので受け取ることのできる公債も少ないものだった。
そうではあるが多くの人が奔走周旋して困難があっても成し遂げたのは金銭に納得できないからではなかった。
まさしく他藩士と同じ待遇を得るためであった。おお この光栄にあずかる者感激して感謝しないものがあろうか。すなわち顛末を石に刻んで後の世の人に伝える。

復禄記念碑(書き下し文)
正四位勲三等功五級 子爵 松平保男 閣下 篆額
「明治戊辰、海内大に乱れて東西交戦す。東軍敗績し吾会津藩は封土を没収せられ、尋いで明年更に奥州斗南三万石を賜う。
既にして朝廷藩制を廃し、明治九年政府は家禄公債を諸藩士に給せしに、独り吾が藩士のみ与らず、 是に於て同志の士交々起って待遇の均衡を政府に請えしも省みられず、唯僅に少許の金銭を給せられしに過ぎざりき。
所謂授産金是れなり。後国会開設し、諸士連年陳情して己まず。 三十年家禄賞典禄処分法成る。衆連署して大蔵大臣に請願するも亦其の聴く所と為らざりき。
諸士屈せず遊説益々力む。四十二年法律第二十一号の発布を見るに及んで、始め行政訴訟を起し、争弁九星霜、正議公論漸く満廷を動かし、法官遂に我勝訴となす。
実に大正六年十一月なり。然るに是より先訴願に与らざる者ありて亦尠なからず。其人々結束して起って貴衆両院に請願す。
八年三月法律第三十四号の発布あり。是に於て前後各々其権利を伸ぶることを得たり。夫斗南藩士の食禄甚だ少にして受る所の公債も従って微なり。
然りと雖も前輩諸士奔走周旋して百難を排して奏功せし所以のものは其意独り金銭に在らざるなり。
蓋し亦他藩士と同じく其待遇の平衡を得んと欲するに在り。 鳴呼此幸栄に与る者豈感激して厚く謝せざるべけんや。乃ち其顛末を石に刻して後昆に諗ぐと云。」

昭和四年三月二十一日
正六位勲四等 加藤寛六郎 撰
正八位勲八等 栗村五郎 書


戊辰戦役五十年祭記念碑 8. 戊辰戦役五十年祭記念碑

灯籠に向って右にある仙台石の碑で、中央に「戊辰戦役五十年祭記念碑」・右側に「大正六年八月十五日七日町乙卯青年会建之」と刻まれています。
裏面には次の名前が刻まれています。

顧問
伊藤米次郎 東条吉次郎 大井啓之助 塚原嘉吉 野出平八 山口新吉
会員
五十嵐千代吉 五十嵐兵一 岩沢綱蔵 稲村富次 稲月清太郎 石川善吉 石山忠之助 井関辰之助 猪俣悦美 林直八 林重次郎 芳賀英吾 原田想二郎 岡部嘉正 二瓶鷹美 新井田長助 大沢義松 大場良松 大関善吉 渡部徳助 川守田国之助 渡部丑次郎 川俣義江 神田英次 兼子亀吉 吉田清士 吉川駒造 横山清 吉田喜代寿 横山成雄 竹田勝吉 竹内篤吉 竹内東光 谷川末吉 高杉觉八 玉川喜代松 棚木泰衛 塚原為五郎 角田平次 中村金次郎 中村雅 藤崎忠吉 中村謙吾 中条直三郎 長嶺勝意 鵜川養太郎 上田植一郎 葛岡豊蔵 粂清美 谷津惣蔵 山寺鉄四郎 山口善一郎 山口善悟 松本太吉 松村善喜 渡部芳丸 真船清 丸山久吉 船山建蔵 布家善八 小樋山徳蔵 小荒井正次 相川留四郎 荒海明 佐藤源平 佐藤義次 佐藤清造 佐藤栄三郎 佐々木善次郎 長南寅蔵 桜田美作 木村清吉 木ノ勢半平 木根淵幸平 皆川長造 宮沢惣治 新城庄藏 渋川賢二 鈴木浜吉 鈴木源喜 鈴木幸次郎 諏佐七右工門 須貝彥三郎 会員八十三名



明治戊辰戦争殉難者墓の石柱 9. 明治戊辰戦争殉難者墓の石柱

復禄記念碑の前方にあるこの石柱は戊辰戦争90年祭の際に建立奉納されたものです。
表面には「明治戊辰戦役殉難者墓」と刻まれ、裏面には以下の文面が刻まれています。

為明治戊辰戦役九十年祭記念
寄進建立 柏村毅
昭和三十二年九月二十二日



観音像台座跡と石の思惟仏 10. 観音像台座跡と石の思惟仏

明治戊辰戦争殉難者墓の石柱の横には、高さ5尺(1.5m)ほどの石の台座があり、そこには石の思惟仏が安置されています。
この台座にはかつて7尺(2.1m)ほどの青銅の観音立像がありました。しかし太平洋戦争中に供出されています。

台座の裏面には次の銘が刻まれています。

(書き下し文)
予生を現世に受け、天地人三才の恩を感謝し、国家の慶福と世界の平和とを祈願し、先祖累代、諸精霊の追善供養の為めに先きに金銅仏を建てたが、たまたま太平洋戦争に遭い、軍に徴発せられてその姿体は消えた。そこでここに更に石仏を建立して微忱をつくすのである。
釈尊降誕二千五百年
昭和卅四年五月建之

施主 池内稚 撰文
榎田文助 刻


梵鐘と鐘楼 11. 梵鐘と鐘楼

墳墓の横には梵鐘と鐘楼があります。これはかつての若松市原之町にあった酒造家 柏木七平が私財を投じ発願したものです。
この計画が一般に知られると、老若男女がこぞって銅銭・小判・銅鏡・銀かんざしなどを持ち寄りました。それらの大勢の人々の願いが込められたこの梵鐘と鐘楼は、明治31年(1898年)から明治35年(1902年)までかかり完成したのです。
梵鐘の周囲にはその由来・銘文の撰者・鋳造など関係した人々・七平の息子、柏木七兵衛俊明の歌が彫刻されています。
このように、この梵鐘は戊辰戦争で亡くなった人々のために多くの方々の心がこもって奉納されたもののため、太平洋戦争時の金属供出時にも特別に供出を免除されています。

梵鐘の周囲に刻まれた銘文
・鐘の由来
戊辰の戦にわが会津の藩士たち、矢石の間に命をすてし人三千の数に及びぬるを、折からのこととて一人一人にもえ葬らで、若松阿弥陀寺楼に合せ埋めて祀る事とはなれりけり。
我亡父柏木七平この事を甚く悲み歎きて、なき跡弔ふはしたにだにとて、 みづから貨をすて、鐘を鋳させ、その楼をもたてゝ、その寺にすゑにき。
かくてその霊魂を慰め冥福をも祈らむの志なりけり。このこと遠く聞えて智恩・増上の二寺より六字名号並に大師法語集を贈り賜はりけるこそ、世に類ひまれなることにはありけり。かゝる父の志を永くよよに伝まほしくて、ささかこのよしを記して鐘のはしに彫らしめたるは柏木直之介なり。
明治三十五年壬寅三月
栗田信英 刻

・阿弥陀寺に鐘を釣るの銘(書き下し文)
在昔戊辰、国是粉紜し、東西旅を集め、闘乱雲の如し。
惟うに我が会藩、精誠忠純なり。
孤城屈せず、啻だに張巡のごときにあらず。
あゝ親は子に哭し、 あゝ子は親を喪う。
屍を積むこと三千、この埜園に葬る。
風気漸く開けて、天涯比鄰なり。
明治群を渙いて、終に一元に帰す。
卑しき鯨の吼ゆる処、諸霊諦らかに観ず。
天皇萬歳・国家靖安。

施主 柏木七兵衛俊明

当時廿一世
萩生田感応代
銘文 佐原盛純
謹書 川瀬八三郎正義
鐫字 林英三郎光寿
同 林周蔵光雄
鋳造人 星野宗七重智
吹貫錫拾貫目寄附 山口栄吾
補工 谷代吉
同 安孫子喜三郎
同 大島初太郎
同 大島三次郎
同 高木亀造
大工 大久保要作

明治三十一年十二月七日
「かきりなきつみもむくひも消ぬべし御法の鐘の声のひゞきに 俊明」


鐘楼の石壁に刻まれた銘文
納入 若松市原之町 柏木七兵衛
材木店 柳橋本 大久保善作
大工職 若松市横三日町 大久保誠作
石工職 石山村 矢木子之吉
石工職 石山村 矢木彥太郎
瓦職 石山村 渡部久太郎
土方職 若松市道場小路町 木鋤惣次郎


12. 大仏の土台

墳墓の左側に高さ1間(1.8m)・直径7尺(2.1m)の土台があります。そこにはかつて露座の大仏がありました。
詳しくは阿弥陀寺と大仏も参照


数々の困難を乗り越えて今に至る阿弥陀寺。
そんな阿弥陀寺の歴史を感じてみませんか?
御朱印について 阿弥陀寺では現在御朱印はありません。

しかし、会津東軍墓地の御朱印を阿弥陀寺向かいの、七日町観光案内所で承っています。
定休日などを公式サイトでご確認の上お越しください。


この記事でご紹介した阿弥陀寺に関わる主な出来事

慶長8年(1603年)良然により開基される。
元和4年(1618年)大規模な法会が行われる。
正保2年(1645年)大火災で建物が焼失。
明治2年(1969年)戊辰戦争犠牲者の埋葬が始まる。
明治4年(1971年)御三階櫓が移設される。
明治6年(1873年)戊辰戦争犠牲者の墓標を建てることが許される。
大正4年(1915年)斎藤一、遺言により阿弥陀寺に埋葬される。
昭和19年(1944年)大仏が供出される。
昭和50年(1975年)現在の本堂が建立される。

この記事でご紹介した資料一覧
・近江日野町志 巻上 日野町教育会編(1930年)
・蒲生忠知公伝 西園寺源透 著(1933年)
・会津文化財 4号 会津文化財調査研究会編(1984年)
・倉田氏家譜 倉田秀治編(1971年)
・新編会津風土記 会津藩(1803年-1809年)
・戦死之墓所麁絵図 伴百悦(1869年)
・図説 会津若松の歴史 会津若松市市制施行六十周年記念出版編纂委員会(1960年)
・戊辰殉難追悼禄 財団法人 会津弔霊義会(1978年)



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コラム 板倉修理の氏名について

良然の友であり、阿弥陀寺建設で活躍した蒲生家家臣 板倉修理。当サイトでは名字を「板倉」としています。
文献によって名字に違いがあるようですが、これは元になった家臣名簿(分限帳・支配帳)の痛みが激しく判別できないケースがあるようです。
ここでは蒲生家家臣の一覧から、板倉修理と思われる氏名をご紹介します。

●近江日野町志 巻上 日野町教育会編(1930年)
近江日野町志の中に、岡崎家に伝わる「蒲生家支配帳」が紹介されています。これによると元の書状には天保15年(1844年)に原本が虫食いのために手入れが行われたことが記載されています。
この蒲生家支配帳には、蒲生氏郷時代とその約8年後の秀行時代の家臣の禄高が比較されています。
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208250/226
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208250/228
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208250/246

近江日野町志 巻上 倉掛修理 蒲生氏郷家臣として「倉掛修理」の名前がある。石高は700石。

近江日野町志 巻上 上段下段 上段が蒲生氏郷時代・下段が蒲生秀行時代。元の書状には虫食いに関する但し書きがついていることが掲載されている。

●蒲生忠知公伝 西園寺源透 著(1933年)
蒲生忠知公伝の中では、蒲生家家臣の松山での知行と会津での知行が比較されています。
原本は、仙波隆太郎氏所蔵「蒲生支配帳」と、治城内庫(松山藩文庫)の「蒲生家雀」・「幕府隠密の記」と符合したと記されています。
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112640/31
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112640/45
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112640/30

蒲生忠知公伝 倉坂修理 「倉坂修理」の名前がある。石高は700石。

蒲生忠知公伝 松山と会津 仙波隆太郎氏所蔵 松山と会津の比較・仙波隆太郎氏所蔵の蒲生支配帳が原本であることが記されている。

●会津文化財 4号 会津文化財調査研究会編(1984年)
この本の特集「弥勒寺「蒲生家分限帳」山ノ内岑生」の中では、弥勒寺(みろくじ)(福島県会津若松市大町1丁目5-1)にかつて保管されていた蒲生家分限帳が紹介されており、以下の説明があります。

「文久元年(1861年)、当山開基蒲生秀行公250回遠忌に際し、弘真院住職が蒲生家の分限帳なるものを取調べ製本し、寺の什宝とした。その後の明治16年、弘真院住職が弥勒寺に転住するようになってからは、弘真院の書類等も総て弥勒寺において保管されるようになったが、明治29年6月、弥勒寺火災の際にこの分限帳もまた烏有に帰した。しかし幸なことに、加藤長四郎氏がこの分限帳を書写して所持しておられたので、氏に依頼して浄写製本した (明治42年頃)のがこの家臣録である」

弥勒寺「蒲生家分限帳」では、「倉垣修理 700石」と記載されています。


このように、蒲生家家臣が掲載されている分限帳は痛みが激しく、写本が繰り返されてきました。そのため、写本の過程で誤記が生じたり判別できない氏名もあったと推察できます。
これまで紹介したそれぞれの資料に掲載された性をまとめると以下の通りです。
倉掛修理(近江日野町志:岡崎家所蔵 蒲生家支配帳)
倉坂修理(蒲生忠知公伝:仙波隆太郎氏所蔵 蒲生支配帳・治城内庫 蒲生家雀・幕府隠密の記)
倉垣修理(会津文化財 4号:弥勒寺 蒲生家分限帳)

当サイトでは、原本を確認できる「新編会津風土記」(詳細は後述)内の「板倉某」という記載を元にし、「板倉修理」と表記しています。
(調査継続中)
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コラム 良然ゆかりの寺

現在の栃木県益子町の生まれであった良然は、福島県内の多くの寺院と関わりをもっていました。
良然ゆかりの寺をご紹介します。
●確実なもの ▲調査継続中

▲梅松寺 福島県伊達郡川俣町小島北成沢3
天正4年(1576年)良然により創建

●円通寺 栃木県芳賀郡益子町大沢1770
会津若松市 阿弥陀寺は円通寺の末寺として建設

●善導寺 福島県郡山市清水台1丁目1-23
天正7年(1579年)円通寺(栃木県益子町)第15世良信の弟子良吸(良岌)により創建

▲善導寺 福島県二本松市針道佐勢ノ宮1
天正7年(1579年)良然により創建とされるが詳細不明

▲無能寺 福島県伊達郡桑折町上町4
慶長元年(1596年)良然が創建

●阿弥陀寺(会津若松市七日町)
慶長8年(1603年)良然が開基

●見性寺 福島県会津若松市日新町16-36
元和5年(1619年)良然の隠居寺として建設。元和8(1622年)この寺で死去

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コラム 伴百悦の墓

伴百悦は久保村文四郎を斬殺した後、新潟県の大安寺村 坂口津右衛門を頼り慶雲庵に身を潜めていました。
現在その場所(〒956-0813 新潟県新潟市秋葉区大安寺)には、墓が建てられています。

  • 新潟県新潟市秋葉区大安寺(旧新津市)にある、伴百悦の墓。美しい田園風景の中にある、こんもりとした林がそれである。新潟県新潟市秋葉区大安寺(旧新津市)にある、伴百悦の墓。美しい田園風景の中にある、こんもりとした林がそれである。
  • 道路に案内板が表示されている。民家の間の分かりにくい路地を進むので、案内板が頼りになる。道路に案内板が表示されている。民家の間の分かりにくい路地を進むので、案内板が頼りになる。
  • 路地を抜けると、林の中に墓地の空間が広がる。伴百悦の他にも地元の方の墓地が並んでいる。路地を抜けると、林の中に墓地の空間が広がる。伴百悦の他にも地元の方の墓地が並んでいる。
  • 伴百悦の墓石と、伴百悦庵室跡地の表示柱。伴百悦の墓石と、伴百悦庵室跡地の表示柱。
  • 新しい墓石が建てられている。新しい墓石が建てられている。
  • 「新津市大安寺慶雲庵に於いて 明治3年6月22日没 享年44才」と記されている。「新津市大安寺慶雲庵に於いて 明治3年6月22日没 享年44才」と記されている。
  • 墓石の側面と裏面の様子。墓石の側面と裏面の様子。
  • 越後交通 柏村毅社長の手によって整備されたことが記されている。越後交通 柏村毅社長の手によって整備されたことが記されている。
  • 墓地の木々のすき間から望む景色。墓地の木々のすき間から望む景色。

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