七日町駅




おすすめポイント

七日町通りのシンボルでもあるレトロな駅舎です。

駅のホームと停車するラッピング車両 駅のホームと、停車するラッピング車両
まちなか周遊バスなどの発着点でもあり、観光シーズンには多くの人で賑わっています。
冬季間には駅舎や周りの木々がライトアップされ、雪景色とともに幻想的な風景を作り出します。
外壁はちょっと古びていますが、古き良き日本の駅を思い出させる雰囲気です。人混みの中、地元のお国訛りも聞けるかもしれません。

駅にコインロッカーは設置されていませんが、すぐ近くの七日町観光案内所で有料手荷物預かりサービスを行っています。
駅の中には七日町駅カフェが併設されています。

駅の開設にかけた熱き思い
只見線路線図 只見線 会津若松 - 若宮間 七日町駅と同時開業した若宮駅 七日町駅と同時開業した若宮駅
七日町駅は、会津若松駅と西若松駅の中間に位置しています。会津若松と西若松の2駅間は短い距離しかないため、さらにその間に新たな七日町駅を新設するためには大変な苦労と調整が必要でした。

そのため、昭和9年(1934年)に七日町駅・若宮駅・根岸駅が同時開設された際、ガソリン動車(ガソリンカー、気動車のうちガソリンエンジンを動力として走行する鉄道車両)のみの停車場として用いられることになります。
その後、会津若松市の発展とともに七日町駅を普通駅とする陳情がなされていきました。第二次世界大戦中は陳情を一時休止せざるを得ない世情でしたが、戦後再び陳情の気運が盛り上がっていきます。そしてついに昭和23年(1948年)、現在の前身となる駅舎が完成し、普通駅としての七日町駅が誕生したのです。

速度と保線 昭和11年に発行された、「速度と保線 高氏盛」 に記されている内燃動車運転区間一覧表。
これによると、昭和10年(1935年)8月1日時点で会津線 会津若松 - 柳津区間には3等ガソリン動車「キハ41000」が4両配置されており、そのうち3両が使用されていたことが分かる。


汽車時間表 昭和10年(1935年)に発行された汽車時間表。
「汽」の表記は「汽ハ汽動車」を意味し、七日町駅は3等ガソリン動車である「汽ハ汽動車」のみが停車する駅となっている。
七日町駅と同時期に開業した根岸・若宮の駅についても汽ハ汽動車のみの停車とされている。
当時の会津線・磐越西線を含む福島県時刻表の画像は、なぬかまち.com デジタルアーカイブでご覧いただけます。

なぬかまち.com デジタルアーカイブ :汽車時間表 株式会社安田銀行福島支店


掲示用に作られたと思われる「会津線列車発着時間表」 掲示用に作成された「会津線列車発着時間表」。サイズは縦53cm×横39cm。
「会津若松」と「西若松」の間に七日町駅は無い時代のもの。会津線開業が大正15年(1926年)・七日町駅開業が昭和9年(1934年)と考えると、その間に作られたものと思われる。
当時の人々の鉄道への期待が伝わってくる。
全体画像は、なぬかまち.com デジタルアーカイブでご覧いただけます。

なぬかまち.com デジタルアーカイブ :会津線列車発着時間表


青木志満六が描いた若松市の鳥瞰図 昭和8年(1933年)に青木志満六※1 (あおき しまろく)が描いた若松市の鳥瞰図。
鉄道が赤い線で描かれているが、当時はまだ七日町駅は無く会津若松駅の次は西若松駅だったことが分かる。
現在の七日町駅前にある阿弥陀寺は、この当時でも有名なスポットだった様子がうかがえる。

※1 青木志満六。明治21年(1888年)11月7日 - 昭和31年(1956年)1月14日 。
青木志満六は商業デザイン・西洋画家。群馬県桐生市に生まれ、絵を学びながら東京の三越呉服店(または白木屋呉服店)で図案の仕事をしていた。
その後、大正12年(1923年)ごろ、持病のリウマチが悪化したため会津若松に移住した。移住後は図案家として活躍し、漆器のデザイン・観光絵葉書の図案・観光パンフレットの鳥瞰図などにその名を残している。

なぬかまち.com デジタルアーカイブ :会津若松市 案内 青木志満六作 鳥瞰図


七日町駅が開業した経緯については、七日町駅前に建てられた「七日町駅開設記念碑」に記されています。
この記念碑の台座は、かつて大町四つ角に建てられていた「会津新道碑」の台座でした。

七日町駅開設記念碑 七日町駅を見守る七日町駅開設記念碑。昭和37年(1962年)12月5日に、七日町駅開設15周年を記念し建てられた。土台部分はかつての「会津新道碑」の台座が用いられた。


七日町駅開設記念碑を拡大したもの (画像を選択すると高画質版を表示します。3.32MB)

七日町駅開設記念
明治維新以後歴史に見られる日本の文化産業経済の発展は何よりも鉄道施設による交通網の開発が大きな礎石となったのである
会津の今日に至った栄光の歴史もまた同様で即ち
明治三十二年(明治32年(1899年))郡山若松間の岩越鉄道の開通
大正三年(大正3年(1914年))若松新津間の磐越西線の全通
昭和二年(昭和2年(1927年))会津滝ノ原線の上三依までの開通
昭和三年(昭和3年(1927年))会津河口線の柳津までの開通は本市の近代都市建設への脱皮を如実に物語っている

七日町通りは昔より越後街道の要衝として栄え若松随一の繁華街を誇ったのであるが会津両線の開通によって列車が素通りとなり年と共に衰退の一途を辿ったのである
こゝに七日町々民は町の将来を憂れい関係各方面に対し七日町に停車場の設置方を強力に陳情したのであるが会津若松駅と西若松駅間はわずか三粁一分(3キロメートル いちぶん)の近距離にありその中間に駅を設置する事は全国にもその例がないので実現は至難を極めた
然し有志諸賢の撓まざる運動の結果 昭和九年十一月(昭和9年(1934年)11月)遂にガソリンカーのみの停車場が設置され その後七日町無人駅を利用するもの年とともに増加 市勢発展上からも普通駅昇格の気運再びもり上がり陳情を続けたのであるが 太平洋戦争の勃発により陳情を一時中止せざるを得ない実情に至ったのである

戦後日本全土の復興と普通駅昇格への気運再び盛り上がり 昭和二十二年一月(昭和22年(1947年)1月)渋川健二氏を委員長とする七日町駅新設期成同盟会が結成され 当時参議院鉄道建設員橋本万右エ門氏をはじめ地元選出の衆参両院議員県会議員三代に亘る若松市長市会議員等関係の方々の絶大なる協力のもとに 請願駅として実現方を仙台鉄道局に陳情し 又昭和二三年五月(昭和23年(1948年) 5月)には小林喜四郎氏を委員長とする七日町駅建設委員会を設立し 駅舎建設資金募集に東奔西走した
この様な地元の熱意が陰に陽に関係官庁を刺激し 幾多の紆余曲折を経て ついに昭和二三年一二月五日(昭和23年(1948年)12月5日)現在の如き七日町駅が誕生したのである

当時駅舎の予算は百参拾余万円(130余万円)で建設され 六拾参万円(63万円)は地元寄附 参拾万円(30万円)は近村寄附 五拾万円(50万円)は若松市負担となった

その後昭和三十年(昭和30年(1955年))北会津郡下八ヶ村の合併により名称も会津若松市と改称され 名実共に会津第一の都市となり七日町駅は全会津えの基点駅となったばかりでなく市の中央駅となったのである

近時産業都市或は基幹都市建設がさけばれている現状に鑑み 且つ本年野岩線並びに只見線の着工決定を見て 共に今後の当駅は極めて重要な地位を占めることは明らかであり 将来の会津若松中央駅として名実共に大いに発展されることを念願して 七日町駅開設一五周年(15周年)を記念し茲に経緯を記したのである

昭和三七年一二月五日(昭和37年(1962年)12月5日)
会津若松市長 横山 武※1 題字撰文
小林春駒 敬書

※1横山 武(1906 - 1971)会津若松市長。鶴ヶ城再建のために尽力された。天守閣近くに銅像が建てられている。


昭和23年(1948年) 開設当時の七日町駅 昭和23年(1948年) 開設当時の七日町駅。


駅の衰退と再起までの道のり 昭和25年(1950年)には、国土総合開発法が施行され同時期に勃発した朝鮮戦争の影響により日本経済が発展するとともに、電源不足を補うため只見川の電源開発が行われるようになりました。七日町駅はその工事現場への交通の出入り口として賑わうようになります。(なぬかまち.com デジタルアーカイブ :只見川の電源開発
しかし、昭和30年(1955年)年代になると電源開発関連工事の完成と共に七日町駅の人混みも消えていくこととなります。

その後、七日町通りは単なる通過点ではなく、街づくりの中心・重要な場所として意識されていくようになります。
七日町通りがシャッター街からの脱却と新たな街づくりに成功しつつある頃、当時無人駅だった七日町駅の雰囲気は良いとはいえないものでした。
町並みに合わせて駅の雰囲気を明るくするために、当初七日町通り協議会ではJR東日本に対して駅員を常駐させてくれるように陳情します。粘り強い交渉の結果、有人駅になることは実現しませんでしたが駅を借り受けることができるようになりました。
そして七日町通り協議会が主体となり、福島県や会津若松市の資金面での支援を受け駅舎を大正浪漫調の洋館に改修することが実現しました。同時に会津地方の特産品のアンテナショップが併設されることになります。その結果、現在のように七日町通り観光の起点・七日町通りのシンボル的な存在へと劇的に変化し今に至っています。

国鉄時代の七日町駅 国鉄時代の七日町駅。1983年8月撮影。右下には現在も残る「七日町駅開設記念碑」の土台石が写っている。自動車・自販機・国鉄コンテナ看板・服装などからも当時の雰囲気が伝わってくる。


七日町駅関連する路線の主なあゆみ

明治32年(1899年)起点の若松駅(現在の会津若松駅)が岩越鉄道※1の駅として開業。
大正15年(1926年)国鉄会津線の会津若松 - 会津坂下間が開業。西若松・会津本郷・会津高田・新鶴・会津坂下の各駅が開業。
昭和9年(1934年)会津線にガソリンカーのみの停車場として七日町駅※2が開業。同時期に根岸・若宮の各駅が開業。
昭和20年(1945年)七日町駅・若宮駅の営業を休止。
昭和21年(1946年)七日町駅・若宮駅の営業を再開。
昭和22年(1947年)七日町駅新設期成同盟会が結成。※3
昭和23年(1948年)七日町駅建設委員会が設立。※4
昭和23年(1948年)七日町駅が普通駅に昇格。
昭和37年(1962年)七日町駅開設15周年を記念し、七日町駅開設記念碑が建てられる。※5
昭和59年(1984年)無人駅となる。
昭和62年(1987年)国鉄分割民営化によりJR東日本の駅となる。
平成14年(2002年)駅舎をリニューアルし、駅カフェを併設。

※1 現在のJR磐越西線。郡山から新津を結ぶ私設鉄道として計画された。明治25年(1892年)に福島県知事に就任した日下義雄は路線開通のために奔走した。日下義雄は会津藩の医師であった石田龍玄の長男。義雄は鳥羽・伏見の戦いや大鳥圭介の隊で箱館五稜郭の戦いに参戦した。戦後は会津生まれを隠して日下義雄と名乗り、岩倉欧米使節団に随行してアメリカに留学した。帰国後は長崎県令、その後福島県令となる。飯盛山で自刃した白虎隊士である石田和助は兄弟。
※2 昭和9年(1934年)11月1日。
※3 昭和22年(1947年)1月。
※4 昭和23年(1948年)5月。
※5 昭和37年(1962年)12月5日。


コラム 七日町駅に乾草やむしろを積んだ車両逸走事故

1962年11月発行の「車両と電気 車両電気協会 編」には、七日町駅にも影響を及ぼした、隣駅 西若松駅での車両逸走事故の顛末が記録されています。

貨車側ブレーキ調整不良による車両逸走事故
8月18日9時32分発生。 仙台局管内会津線西若松駅構内上り2番線において、トキ17540 (砂利積) を作業員が、 本屋の宮下方砂利積場から会津若松方に147米仮置する目的で手押しを行い、約80米進行後 (推定速度5~6軒)貨車側ブレーキにより停止させようとしたが、 制動効果が少く減速しないので、 更に強くテコを踏み(テコの爪は下から2段目まで降下した。)停止させようとしたが及ばず、そのまま9時32分頃、23号点てつ器を割り出して場外に逸走した。
作業員はその後もブレーキを踏み続け、2600米近で会津線管理所の機関助士(勤務外)がこれを発見し飛乗り2人一緒にテコを踏んだが、テコの爪は下から1段目まで下ったが、貨車は停止する様子がなかった。
さらに約500米進行したとき保線区員(勤務外)も飛乗ったが、約15~16軒の速度で七日町駅に進入した。
一方逸走を発見した西若松駅2番丁踏切保安掛は、直ちに当務駅長に通報したので、駅長は至急この旨を隣駅の七日町駅及び会津若松駅に通報した。
七日町駅では線路上に乾草やむしろを積み待機していたが、1200米の地点(七日町駅構内)で9時44分頃ようやく自然停止した。
このため会津若松発第415列車は9分30秒延発した。
原因は、プレーキの調整不良(中央部における所定箇所での調整を行わず、外側テコに近い方で調整してあった。)と、当務駅長が作業員による手押入換に対し監視を行わなかったためと認められる。
該車の前回検査は、一般35年12月盛岡工、指定取替37年4月富山区、仕立7月17日田区であつた。



駐車場
七日町駅隣り、パチンコジャンボ駐車場の脇に駅カフェ用無料駐車場あり
定休日
新型コロナウイルス感染症の影響により、定休日が変更されている場合があります。
なし (全店舗の定休日を見る)
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