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七日町(ナヌカ)
七日町家数百四十九軒の地なり。
街の栄光と没落。七日町通りの歴史と現代の賑わいを取り戻すまでの歩みとは?
七日町通りは、「大町四つ角」より西に向かい「七日町駅」に至る通りです。
近くの「神明通り」は南(地図上では下側)に進むと、鶴ヶ城(会津若松城)へつながる通りとなっています。
街道へつながる重要拠点
これまでの歴史において、七日町通りにある大町四つ角は他国への街道の出入り口、つまり基点となるところでした。
会津五街道とも呼ばれる、白河街道(若松から猪苗代湖南岸を通り白河へつながるルート)・日光 下野街道(日光を通過する江戸への最短ルート)・米沢街道(米沢 山形方面へ向かうルート)・越後街道(新潟方面へ向かうルート)・二本松街道(若松から猪苗代北岸または南岸を経て二本松へ向かうルート)へ接続されており、人馬や物資の重要な通り道の基点だったのです。
また、大町四つ角は人通りが多いため、高札場(藩主や代官などの命令が領内に行き渡るように札や紙に記されたものが掲げられた場所)としても用いられ「大町札の辻」と呼ばれていました。
さらに重要な拠点であったため、東南角に梁田家、東北角に倉田家の検断(警察や裁判を総括する役職)屋敷がありました。
江戸時代後期に大須賀清光※1 (おおすがせいこう )が描いた若松城下絵図の一部分。大町四つ角付近の様子。
高札場を挟んで梁田家と倉田家の屋敷がある。十日市で参拝した田中稲荷の位置関係も分かる。現在の七日町通りの東端も大町四つ角とされている。
※1
大須賀清光。文化6年(1809年)4月 - 明治8年(1878年)6月17日。
江戸時代後期に活躍した町絵師。裕福な商人で、会津を愛し会津を題材にした郷土の作品を数多く残している。
新年行事と七日町の名前の由来
当時、正月を迎え10日の未明になると、倉田家の屋根から翁に扮した人物が路上のふんどし姿の男性たちに俵を投げ落とし、上町と下町に分かれた男性たちはその俵を引き合ってその年の米価を占うという行事が行われます。
この行事は俵引と呼ばれ、上町が勝つとその年の米価が上がり、下町が勝つとその年の米価が下がると伝えられていました。
その後、その年初めての市である「十日市」が開催となりました。十日市では、生活に必要な品々を買い求め市神様と呼ばれる田中稲荷神社(福島県会津若松市大町1丁目1-5)に参拝し、米を買うというのが恒例の行事となっていたようです。
その年の初市の初め(正月明け10日)に行われた俵引の様子。倉田家の屋根に人がおり、雪の上を俵が転がった跡が分かる。
通りの真ん中には大町札の辻の高札場が描かれている。
この十日市を始めとして、各町で月のそれぞれの日に市が開かれていました。
七日町の付近では毎月7日に市が開かれていたため、その地域が「七日町」と呼ばれるようになっていきました。
その後、会津藩領内の各地に立つ六斎市(六斎とは1ヶ月に6日ある仏教の思想に基づく斎日。その日にちなんで月に6回開催していた定期市を六斎市と呼んでいた)が開かれるようになり、七日町で開かれる市も六斎市へと変化していきます。このような七日町における市を主催し監督していたのが、商人司検断職でもある簗田家でした。
藩主として保科正之が会津に入った翌年である正保元年(1644年)に、七日町は博労町と共に伝馬町(当時の交通手段である馬に関する業務を行う)に指定されました。宝永4年(1707年)には、人馬を手配する「馬指」が置かれています。
資料から復元する七日町
七日町に関する資料はいくつか残されており、それらを総合すると当時の街並みを復元することができます。
七日町についての資料
七日町の街並みに関する資料として、現代に残されている主なものは以下の通りです。
・新編会津風土記 享和3年(1803年)から文化6年(1809年)
・若松風俗帳 文化4年(1807年)
・地籍帳 地籍図 丈量帳 明治7・8年頃(1873年・1874年)から明治13年頃(1880年)
・屋敷名録 若松後町組分 明治3年(1870年)
・屋敷帳 岩代国若松 明治3年(1870年)
・後町組分戸籍 岩代国若松 明治3年(1870年)
・奉公人名録 岩代国若松後町組 明治3年(1870年)
「新編会津風土記(あいづふどき)」は、享和3年(1803年)から文化6年(1809年)にかけて編さんされました。
「会津風土記」は、会津藩主 保科正之の名により、寛文6年(1666年)に完成しましたが、それを補完する情報も含まれた新編として完成したのが「新編会津風土記」です。
「新編会津風土記19巻 若松の5 下町」には七日町通りについてこのように書かれています。
北小路町の北に並び大町札辻より西に往通にて越後出羽両国に通る街道なり
旅籠屋多し長七町十六間幅四間屋敷一四九軒西に小黒川分の民家連る七日町四谷と云長一町一二間幅三間余屋敷二十軒(即小黒川分地なり)
町末より八町一間高久組高瀬村に界フ
又此町の末より北小路町に出る小路あり
【新編会津風土記19巻 若松の5 下町】
北小路町の北に並び、大町札辻(現在の大町四つ角)より西に行く通りで、越後出羽(現在の新潟県・山形県)に通じている街道である。
旅籠屋(現在の旅館・ホテル)が多い。
長さ:7町16間(1間は1.8メートル・1町は60間、約109メートルなので、7町16間は約792メートル)。
幅:4間(約7.2メートル)。
家の軒数は149軒。
西に小黒川分(地域名)の民家が連なっていて七日町四谷と言われている。長さは1町12間(約130メートル)家の軒数は20軒。
町の端から8町1間(874メートル)の距離には高久組高瀬村(地域名)がある。
また、町の端から北小路町に出る小道がある。
また、「若松風俗帳」にも文化年間(1804年~1818年)ごろの七日町の様子が記されています。
但商人住居仕候。諸国通路の町にて、旅籠屋等之有り。東大町木戸より西之町末木戸まで三百六十四間半。
【若松風俗帳】
明治6年(1873年)に地租改正(個人の土地所有権が公認され現金で税を納めるようになった)が行われるとともに、土地所有の境界を明確にするするための地籍図が作成されました。当時の地租改正時、七日町を含め若松町(現在の会津若松市)では、地籍帳7冊・地籍図8冊・丈量帳4冊を県に提出しました。これらの実地調査は明治7・8年頃(1873年・1874年)から明治13年頃(1880年)まで行われたと考えられます。
七日町通りについても地籍図が作られ、それによって当時の各戸の境界や七日町通りの概要を知ることができます。
さらに七日町は戊辰戦争時の焼失を免れたので、それ以前の江戸時代の境界がそのまま引き継がれました。つまり明治の地租改正の地籍図によってそれ以前の江戸時代の境界も推定することができるのです。
大須賀清光「若松城下絵図」に描かれる七日町。大町四つ角や東西の木戸・阿弥陀寺などの位置関係がわかる。
明治3年(1870年)頃七日町は、組割りとして35番組・37番組・38番組・40番組の一部(七日町四ツ谷)で構成されていました。
このうち、37番組・38番組について見ると、「屋敷名録」と「地籍図」は同じ縮尺の600/1で記されていることが分かります。つまり、実際の1間(約1.82m)が、図上では1分(約3.03mm)で表記されていることになります。
七日町の幅と長さ
これらを元にして図上で計測すると、七日町通りから各方面に伸びる道路幅は「丈量帳」・「地籍図」ともに4間(約7.2m)または2間(約3.6m)として描かれています。一方で七日町通りの幅に関しては、「丈量帳」が4間(約7.2m)・「地籍図」が5間(9.9m)と違いがみられています。
七日町通りの長さ(距離)については、西端の「西之町末木戸」から大町四つ角手前にあった「東大町木戸」までの間が記録に残されています。
西之町末木戸は「嘉永安政年間記憶覚書」によると阿弥陀寺の東の境界付近にありました。「七日町々内屋敷図」や「地籍図」によると、実際阿弥陀寺の東隣には番屋敷と呼ばれる惣町(町のそれぞれの組の上位組織)がもつ土地があり、そこには番人小屋が建てられていたことが確認できるので、七日町木戸がその場所にあったことの証明ともなっています。
これらの情報を元にして、西之町末木戸から東大町木戸までの距離を図上で測定すると、実際の距離は364間半(約663m)となります。この距離は「若松風俗帳」に記された「町末木戸まで三六四間半」という文とも一致しています。
さらに地籍図からすると、道路の中央には3尺5寸(約1.05m)の堀が通されていました。この堀は「西之町末木戸」の手前から道路の南側に寄せられ、七日町四ツ谷の道路では側溝となっています。
七日町と呼ばれる範囲
当時は、「西之町末木戸」から「東大町木戸」の間が「七日町」と呼ばれていました。「西之町末木戸」より西の通りは「七日町四ツ谷」と呼んでいました。
これらの呼び方は時代とともに変わってきており、木戸と木戸の間を七日町通りと呼ぶのか・木戸の外側も含めて七日町通りと呼ぶのかはそれぞれの時代であいまいになってきたと言えるでしょう。
これらの木戸を建築するための木材は会津藩から支給されたものが用いられ、実際の木戸を建設するための人員はそれぞれの町が負担しました。
そのようにして設置された木戸は、毎日日暮れと同時に閉ざされ交通が遮断されます。また、町内の通行は午後6時以降は提灯を灯す必要がありました。
江戸時代の賑わい
七日町通りは交通の要衝であり多くの人が行き交う通りでした。
文化4年(1807年)の「若松風俗帳」には、七日町通りについて「但商人住居候、諸国通路の町にて旅籠屋等之有り」と書かれており、交通の要衝の地にある旅籠・商人の町であったことが分かります。
弘化2年(1845年)の「旅籠株極帳」には、会津若松城下にあった旅籠屋の95軒のうち30軒が七日町通りにあったことが記されています。
明治元年(1868年)の「諸商売株人別調帳」によると、七日町通りの旅籠は33軒となっており長い間賑わいが続いていました。
七日町の賑わいは、嘉永5年(1852年)の「若松緑高名五幅対」という会津のなんでもランキングからも知ることができます。
それによると、七日町にある店が数多く掲載されています。
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01.筆 : 霜免軒
02.染物 : 傳之丞
03.菓子 : 鶴屋
04.薬種 : 堺屋喜左衛門
05.塗問屋 : 白木屋喜左衛門・清澄屋儀助・深屋伊兵衛
06.喜世留(キセル) : 近江屋伊兵衛
07.陶産問屋(陶器) : 陶 越後屋
08.油 : 大和屋甚八
09.小間物 : 山田屋正八
10.古道具 : 豊後屋与吉
11.宿屋 : 清水屋(清水屋旅館跡)・松川屋
12.烟草(煙草・タバコ) : 梅宮屋
13.書林(本屋) : 堺屋作左衛門
14.料理茶屋 : 藤平
15.流行二八(二八そば) : 坂內屋・石川屋
16.煮売茶屋 : 山中屋・坂内屋
七日町木戸での一揆
江戸時代において七日町の木戸は、歴史的な衝突の舞台ともなりました。
寛延2年(1749年)12月のこと、会津藩史上最大の農民一揆が起こります。
いわゆる寛延一揆と呼ばれるもので、現在の猪苗代で蜂起した農民が周辺の村で人を集め、最終的に2万人が七日町木戸に押し寄せることになりました。
一揆の原因は借りた米の返済条件が悪いことでしたが、それまでに続いた作物の不作にもかかわらず重い年貢が課されていたことも原因であったと言われています。
木戸を境にして一揆勢と会津藩兵が対峙しましたが、一揆勢は木戸を打ち破り木戸内に侵入します。その際、会津藩兵が発砲し多数の死傷者が出ました。
会津藩兵の発砲によって一揆勢はひるみ一旦は後退します。
しかし、七日町で攻防が続けられていた間に、他の城下口から一揆勢が城に迫っていました。
このような事態に至ったため、ついに会津藩側は年貢を半免することや米の貸し出しなども行うことを約束し、一揆は沈静化へと向かっていきます。
しかし、実際には年貢の半免は困窮者だけに限られ、さらには一揆の首謀者の処刑が行われたのです。
江戸時代の終わりと明治時代における交通の発展
徳川の時代が終わるとともに戊辰戦争は会津に悲惨な爪痕をのこしていきました。
戊辰戦争の戦死者が葬られることを許されたのが阿弥陀寺であるなど、七日町は激動の歴史の舞台となりました。
明治初期に撮影された七日町通りの写真を見ると、戊辰戦争後の会津若松は交通の要衝として栄えた七日町通りも含め、まだまだ慎ましい暮らしだったことが分かります。
明治時代初期の七日町通り。阿弥陀寺から東(東山温泉方向)を撮影したもの。廃仏毀釈運動で移転した大仏(大仏の詳細は阿弥陀寺のページを参照)が写っている。わらぶき屋根が多い。
ディープラーニングによる着色
三島通庸による会津三方道路
明治時代は会津の交通がさらに発展した時代でもあります。
当時の福島県令で、土木県令とも呼ばれた三島通庸(みしま みちつね)は、「会津三方道路」と呼ばれる幹線道路を整備しました。
三方という言葉の通り、会津若松の大町四つ角交差点を起点にして新潟方面(越後街道)・米沢方面(米沢街道)・日光方面(日光街道)の道幅を拡幅し、整備する大事業でした。
現在の国道の原型ともなった会津三方道路は、七日町通りの基点でもある大町四つ角から始まったのです。
明治15年(1882年)8月17日に起工式・明治17年(1884年)8月に竣工・同年10月27日に開道式が行われた会津三方道路を記念し、明治19年(1886年)8月には大町四つ角に「会津新道碑」が建てられました。
明治19年(1886年)8月に建てられた会津新道碑の拓本。会津若松市立会津図書館に残されている。
撰文(文章をつくること)は、南摩綱紀(なんま つなのり)。
篆額(てんがく、石碑などの上部に篆書で書かれた題字)は、有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう 皇族・猪苗代湖畔の天鏡閣を建設された)。
会津新道碑に記された工事の内容について。
道路の長さ
若松から栃木県境界まで 16里30町余(約68km)
若松から新潟県境界まで 24里余(約96km)
若松から山形県境界まで 11里余(約44km)
人夫の総人数:825.340人
代役者の出金額:216,630円
官の補助額:160,680円
地税補填額:10,000円
寄附金額:75,320円
合計金額:462,630円
参考:明治の小学校教員や警察官の初任給は月額約9円。熟練した大工や工場の技術者の月給は月額約20円。
南摩綱紀が環碧楼文鈔(かんぺきろうぶんしょう)の中に記した、会津新道碑の草稿。
南摩綱紀は会津藩士であるとともに、明治にかけての教育者としての功績も残した。
国立国会図書館デジタルコレクション
会津新道碑はどこへ?
現在、大町四つ角には小さな「若松市道路元標」(わかまつしどうろげんぴょう)が残るのみとなっており、それは街道の基点となっていた名残をとどめています。
残念なことに、同じく大町四つ角に建てられていた「会津新道碑」は現在残されていません。
というのは、会津新道碑は銅製だったため第二次世界大戦で供出されてしまったからです。同じく七日町通りから大戦中に供出されたものとしては、阿弥陀寺の大仏があります。
しかし、会津新道碑の「台座」は現在も残されています。それは七日町駅前に移され「七日町駅開設記念碑」の台座として現存しており、それを守り続けた当時の人々の思いが伝わってきます。
現存する台座のコンクリートで補強された幅や厚みを見ると、会津新道碑の大きさを思い描くことができます。
(会津新道碑のゆくえについては福島県立博物館様に情報をご提供いただきました。)
三島通庸は会津三方道路という壮大な土木事業の成果を記録として残すため、写真撮影を菊池新学(きくち しんがく。天保3年(1832年) - 大正4年(1915年)。明治時代の写真師。)に依頼しました。
そうして撮影された写真は福島県によりまとめられ、「福島県下諸景写真 会津方部土木事業の景」として残されています。
菊池新学の他にも、風景画を高橋由一(たかはし ゆいち。文政11年(1828年) - 明治27年(1894年)。洋画家。)に依頼したものが、「福島県道路風景画帖」として残されています。
この画集は、会津三方道路を含めた当時の福島県内各地の道路沿いの風景や大規模な工事の様子を描いたものです。
高橋由一は、石版に描いた淡彩画(薄いあっさりした彩色)を絹に転写し、着彩(絵画や工芸に色を施すこと)する方法で作成しました。そのように描かれた53枚の絵を台紙に貼り折本としたものが福島県道路風景画帖です。
菊池新学。「福島県下諸景写真 会津方部土木事業の景」の「第十四号 北会津郡若松七日町ノ景」。
明治10年代、七日町通りの貴重な写真。
福島県立図書館
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大正6年末から大正7年にかけての大雪に見舞われる七日町通り。積まれた雪で馬車の通行は難しい。
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阿弥陀寺は慶長8年(1603年)に開基されたお寺です。そして多くの歴史の舞台ともなってきたお寺でもあります。良然によって開かれ、地元の多くの人々が協力した阿弥陀寺。戊辰戦争時には悲劇の舞台ともなりました。
清水屋はかつて七日町通りにあった旅館です。建物は木造3階建てで、当時から格式の高い旅館でした。歴史の教科書で名前を見たことのある、あの有名人たちもここに宿泊しました。
かつてここには「吉祥院」という大きなお寺がありました。現在はその本堂は残っておらず、地蔵尊が残るのみ。目を閉じるとかつての勇壮な建物がそこに。