七日町通りの歴史について



七日町通りの歴史

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街の栄光と没落。七日町通りの歴史と現代の賑わいを取り戻すまでの歩みとは?

七日町通りは、現在も残る大町四つ角より西に向かう通りです。この場所では七のつく日に市がたっていたためにこのように呼ばれるようになりました。
七日町通りの基点ともなる大町四つ角は高札場であり、「札の辻」と呼ばれていました。高札場とは、藩主や代官などの命令が領内に行き渡るように、札や紙に記されたものが掲げられた場所です。

街道へつながる重要拠点七日町通りは、他国への街道の出入り口に位置しています。新潟方面へ続く越後街道・山形米沢へ向かう米沢街道などへ接続されており、人馬や物資の重要な通り道でした。
そのため、会津若松城下でも旅籠の数が最も多い通りとして賑わっていたといわれています。

藩主として保科正之が会津に入った翌年である正保元年(1644年)に、七日町は博労町と共に伝馬町に指定されました。
伝馬町とは当時の交通の中心であった馬に関する業務を行う場所です。
宝永4年(1707年)には、人馬を手配する「馬指」が置かれました。

七日町の端には木戸が設置されていました。
木戸がある場所は、会津若松城下へ西から入ることのできる重要な拠点でした。
当時、会津若松城下では町ごとの境界や、侍屋敷と町の境界には木戸が設置されていたようです。
これらの木戸を建築するための木材は会津藩から支給されたものでした。実際の木戸を建設するための人員はそれぞれの町が負担しました。

そのようにして設置された木戸は、毎日日暮れと同時に閉ざされ交通が遮断されます。
また町内の通行は午後6時以降は提灯を灯す必要がありました。
このように城下の警備は厳重になされていたことが分かります。

江戸時代の賑わい七日町の賑わいは、嘉永5年(1852年)の「若松緑高名五幅対」という会津のなんでもランキングからも知ることができます。
それによると、七日町にある店が数多く掲載されています。

若松緑高名五幅対に掲載されている七日町の店画像選択で拡大できます。

01.筆
霜免軒

02.染物
傳之丞

03.菓子
鶴屋

04.薬種
堺屋喜左衛門

05.塗問屋
白木屋喜左衛門・清澄屋儀助・深屋伊兵衛

06.喜世留(キセル)
近江屋伊兵衛

07.陶産問屋(陶器)
陶 越後屋

08.油
大和屋甚八

09.小間物
山田屋正八

10.古道具
豊後屋与吉

11.宿屋
清水屋(清水屋旅館跡)・松川屋

12.烟草(煙草・タバコ)
梅宮屋

13.書林(本屋)
堺屋作左衛門

14.料理茶屋
藤平

15.流行二八(二八そば)
坂內屋・石川屋

16.煮売茶屋
山中屋・坂内屋


七日町木戸と農民一揆七日町の木戸は、歴史的な衝突の舞台ともなりました。
寛延2年(1749年)12月のこと、会津藩史上最大の農民一揆が起こります。
いわゆる寛延一揆と呼ばれるもので、現在の猪苗代で蜂起した農民が周辺の村で人を集め、最終的に2万人が七日町木戸に押し寄せることになりました。
一揆の原因は借りた米の返済条件が悪いことでしたが、それまでに続いた作物の不作にもかかわらず重い年貢が課されていたことも原因であったと言われています。

木戸を境にして一揆勢と会津藩兵が対峙しましたが、一揆勢は木戸を打ち破り木戸内に侵入します。その際、会津藩兵が発砲し多数の死傷者が出ました。
会津藩兵の発砲によって一揆勢はひるみ一旦は後退します。
しかし、七日町で攻防が続けられていた間に、他の城下口から一揆勢が城に迫っていました。

このような事態に至ったため、ついに会津藩側は年貢を半免することや米の貸し出しなども行うことを約束し、一揆は沈静化へと向かっていきます。
しかし、実際には年貢の半免は困窮者だけに限られ、さらには一揆の首謀者の処刑が行われたのです。

江戸時代の終わりと戊辰戦争徳川の時代が終わるとともに戊辰戦争は会津に悲惨な爪痕をのこしていきました。
戊辰戦争の戦死者が葬られることを許されたのが阿弥陀寺であるなど、七日町は激動の歴史の舞台となりました。

戊辰戦争は多くの犠牲者を出しただけでなく、会津の産業も壊滅に追いやりました。
戦いの後に会津に残った主な産業は、酒造と漆器です。特に会津は水が豊富な土地であり、昔から酒造が盛んでした。
また、作物が作れない冬にも継続して作業ができる漆器は会津の主要産業として、戦いの後の復興の原動力ともなったのです。

漆器産業は会津若松市全体の発展にも大きく関わっています。
例えば、会津若松市が市制に移行した後、七日町の老舗漆器問屋である白木屋漆器店などはその当主が会津若松市長として市の発展に尽力しました。
漆器を「会津漆器」として、普段の生活や特別な日のお祝いにも使用できるようなブランド品へと育ててきたといえます。

このように、明治・大正・昭和と時代が変わっても、七日町は経済や交通の中心地として大きな役割を果たしてきたのです。

戦前の七日町通り ディープラーニングによる色付け白黒写真をディープラーニングによる色付け。戦前の七日町通りの様子。
右側には現在も残る白木屋漆器店や、旧郡山橋本銀行若松支店(現在の滝谷建設)の建物が見える。
街を歩く人々は和服で、当時の時代を反映している。


街の低迷とそこからの復活昭和・平成へと時代が移り変わるとともに、交通事情も変わっていきます。七日町に限らず、人の移動手段は車へと移っていきました。
それとともに人の流れは変わり、七日町通りは単なる道路となり多くの人は車で通過するだけの通りとなったのです。
かつて多くの人で賑わっていた通りは、1990年から2000年ごろには街を歩く人はいなくなり店舗はシャッターが降ろされた閑散とした通りとなってしまいました。
人口の減少や店主の高齢化などによって、空き店舗なども増えていき七日町の商店会が解散するほどの状況へと追い込まれていきます。

そんな状況を打開しかつての賑わいを取り戻そうと立ち上がったのが、七日町通りまちなみ協議会の会長である渋川恵男さん(渋川問屋取締役)・同副会長 庄司裕さん・会津若松市議会議長 目黒章三郎さんでした。
この3名は、「街の人口減少は止められない、それなら観光客を誘致することによって賑わいを取り戻す」という発想を実行に移していきます。
そのために、空き店舗を改装しレトロ風なデザインや町並みと馴染む外観へと変えていきました。
また、元々残っていた古い建物をあえて見せることによって、元々ある時代遺産を生かしていくことも提案していきました。

それらの過程が全て順調だったわけではありません。
それまでの町おこしの失敗に、いわば疲れを感じていた各店舗の店主を説得するのは簡単なことではなかったようです。
しかし、ある一軒の店舗が改装をきっかけにガイドブックに取り上げられるとともに観光客が来るようになったことで、成功のモデルケースができることになります。
また、積極的に補助金を投入することにより、店舗を改装し景観を整えることが加速していきました。

店舗が改装され観光客が集まるようになるとともに、通りのシンボル的存在である七日町駅の改装も実現しています。
それまでは無人駅として荒れていた七日町駅が改装され、見た目だけでなく駅のアンテナショップも入居することになりました。
それによって、駅も人が集まる場所へと変わっていったのです。

このように人が集まる店舗が増えることに加えて、定期的なイベントも開催されるようになりました。
イベントによって定期的な集客ができるようになり、イベントを目的として来てくださる観光客も増えるようになっています。
さらには国内だけでなく海外からの観光客も増加している傾向にあります。

最近では、テナントが複数入ることのできる大型店舗の改装が進められています。
いずれも古くからある商家の蔵や建物を有効に利用したもので、価値ある建築を活かしつつも時代にあった運営を目指しています。
さらに街全体としても電線を地中化するなど、景観に配慮したまちづくりも進められています。


このように、各時代の人々が守り抜いてきた七日町通りの賑わい。
町並みは生き物のように常に変化を繰り返していくもの。長い時代の中で今も生命力にあふれる七日町通りを歩いてみませんか?


地図